シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十二 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十二

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 ハバロフスクの収容所の人々は、不当な裁判によってその多くは刑期二十五年の懲役刑に服していた。長い収容所生活によって体力も、みな非常に衰えていた。それにも関わらず収容所の扱いは相変わらず過酷であった。

 ハバロフスク事件は、収容所の扱いによって生命の危険を感じた人々が、自らの生命を守るために団結して立ち上がった抵抗運動である。

 事件当時の状況を示す資料は、奴隷的労働の様子、与えられる食糧のひどさ、そして病弱者の扱いの不当などを示している。労働にはノルマが課せられ病弱者にも容赦がなかった。食糧については、まず与えられるカロリー数が少ないこと。旧日本軍は重労働に要するカロリーを一日、3800キロカロリーと規定していたが、収容所ではやっと2800キロカロリーであった。日本人の食生活の基本は、本来肉食ではなく米や野菜である。したがって、日本人の体にとっては、特に生野菜が必要であった。野菜が採れないシベリアの冬は、特に深刻であったと思われる。余談になるが、最近のシベリアの小学校の様子を伝える映像として、冬期、給食の時、野菜不足の対策としてビタミンの錠剤が配られる姿があった。

 

二 ハバロフスク事件の前兆としての出来事

 

 ソ連の態度は、威圧的で情け容赦がなかった。「我々は、百万の関東軍を一瞬にして壊滅させた。貴様等は敗者で、囚人だ」と、何かにつけ怒鳴った。日本人抑留者は、この言葉に怒りと屈辱感をたぎらせていた。あのように言っているが、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされ、満州では実際戦える戦力はなかったのだ。そこへ入ってきて、強奪と暴行のかぎりを尽くした卑しい見下げはてた人間ではないか。人々は皆、こう思いつつ、帰国という一縷の望みを支えていた。ソ連側の基本的な考えは、日本人は憎むべき戦犯である。だから従順な日本人を徹底的に酷使する、ということであった。

 

つづく