シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十一 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一三十一

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

一、 ハバロフスク事件の背景

 

 ハバロフスクはロシア極東地方の中心都市で、アムール川とウスリー川の合流地点に位置し、シベリア鉄道の要衝である。強制抑留のシンボル的な都市で、多くの日本人はここを通って各地の収容所へ送り込まれ、帰国するときもここに集められてからナホトカ港に送られた。

 ハバロフスク事件の発生は、昭和三十年の暮れである。日本人抑留者のほとんどは、昭和二十五年の前半までに帰国した。しかし、元憲兵とか、特務機関員とか秘密の通信業務に従事した者などは、特別に戦犯として長期の刑に服し、各地に分散し受刑者として収容されていたが、一般の日本人抑留者の帰国後、ハバロフスクの収容所に集められていたのである。

 前橋市田口町在住の塩原眞資氏は、昭和二十五年に帰国したが、その前はコムソムリスクの収容所におり、その後ハバロフスク収容所に移されていた。昭和二十三年にここに入れられたときのことを塩原氏は、その著『雁はゆく』の中で次のように述べている。

「この収容所に集結された者は、聞いてみると、日本軍の憲兵、将校、特務機関員、元警察官、そして私のように暗号書を扱った無線通信所長等、軍の機密に関係した者ばかりの集まりであった。それからいろいろといやな記憶が頭をかすめる。この収容所に入れられた者は、絞首刑か銃殺か、または無期懲役かと寝台の上に座って目を閉じる」

 塩原さんたちの帰国後も、この収容所の日本人たちの苦しい抑留生活は続いた。そして、世界の情勢は変化していた。

 昭和二十七年、参議院の高良とみが日本人として初めてこの収容所を訪れ、一部の日本人被収容者に会ったとき、彼らは一様に「日本に帰れるのか」、「死ぬ前に是非もう一度祖国を見たい」「祖国は私たちを救う気があるのか」と悲痛な表情で訴えたという。

 ほとんどの日本人抑留者は帰国した。そして、昭和二十八年にはスターリンが死に、ソ連当局の受刑者に対する扱いは大きく改善され、ドイツ人受刑者も帰国を許された。それなのに日本人だけは、従来と同じような過酷な扱いを受けている。高良とみに訴えた日本人の心には、このような情勢のなかでのいい知れぬ焦燥感と底知れぬ淋しさがあったと思われる。

つづく