シベリア強制抑留 望郷の叫び 一二六 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一二六

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 とみは帰国後昭和二年三十一歳で母校日本女子大学の教授に就任、三十三歳で慈恵医大の高良武久と結婚する。女性の学者はオールドミスで終わると思われていた時代なので、三十三歳の彼女が三つ年下の男性と結婚、しかも恋愛結婚ということもあって大いに話題となり新聞や雑誌が書き立てたという。

 敗戦後は呉市長に懇願され、呉市助役となる。呉市は、軍港を初め重要な軍事施設が多く会ったところで、終戦後は多くの進駐軍が進駐し、これらの外人とのトラブルや占領軍との交渉が多かったから高良とみの経歴、特に英語力が必要とされたのである。全国初の助役として新聞で大きく報道された。

 やがて、高良とみの人生に大きな転機が訪れる。女性に参政権が認められることになったのだ。どこのまちにも、腹をすかせ目をギョロギョロさせた戦災孤児が多くいた。また、大都会には、外国人の腕にぶら下がって歩くパンパンと呼ばれる日本女性が溢れていた。

 婦人解放の問題に取り組んでいた母の姿を見て育ったとみは、敗戦の社会で喘ぐ哀れな女たちの姿を見てつらかった。婦人参政権の実現は天が与えた絶好のチャンスと思え、とみは一大決心をして参議院議員選挙に立候補する。昭和二十二年のことである。高良とみは民主党から立候補して三十四位、女性では十名中四位で当選する。

 高良とみは参院議員になって海外同胞引揚委員会に属し、その副委員長を務めていた。この委員会には、ソ連における日本人抑留者の情報が時々入っていた。高良とみは、一銭五厘の葉書一枚で戦争に召集され、激しい戦いの中で九死に一生を得て生き延びたにもかかわらず、酷寒のシベリアに送られ長く抑留されている日本人が哀れでならなかった。また、その帰りを待ち焦がれる家族の姿を見て心を痛めていた。そこで、このシベリア抑留者を一日も早く帰国させることが、国会議員としての自分の第一の使命であると固く信じて、行動を起こす機会をうかがっていた。

つづく