シベリア強制抑留 望郷の叫び 一二五 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一二五

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

二 高良とみの歩み

 

 高良とみは明治二十九年、和田義睦、郁子の長女として富山県富岡市で生まれた。とみは公務員である父の転勤により、新潟県の小学校に入学する。その血筋をみると群馬県と関係が深い。母邦子は群馬県佐波郡島村の田島家の出身である。邦子の祖父は、蚕種製造に成功し、「蚕聖」と呼ばれた田島弥平である。田島弥平は蚕糸業によって島村を発展させ、島村は「新地島村に黄金の雨が降る」と言われるほどにぎわったという。

 時は明治の新しい国づくりの気運がみなぎる時節、島村は近代産業である製糸業の隆盛という活気のあふれる中で、西洋の風潮も積極的に取り入れ、また、キリスト教の影響もおおきかったところである。田島弥平はパリの万国博覧会にも出かけたほどのハイカラな人物であった。母邦子は、このような時代の風を吸って、また祖父弥平の影響を受けて育った。

 高良とみは自伝の中で、母のことを次のように語る。

「母は将来島村を背負って立とうとする気概と時代の先端を歩もうとする気迫があふれた勇ましい少女だったようです。断髪に飾り羽根の帽子、乗馬袴といういでたちで、前橋女子高に通う姿は当時でもさぞ人目を引いたことでしょう」

 邦子は前橋女子高校を卒業後、横浜の共立ミッションスクールに進み、そこで西洋風の教育を受けた。邦子はやがて、アメリカ帰りの技師である公務員和田義睦と結婚しとみを産む。

 とみが小学校二年の時、日露戦争が始まり、父は測量の仕事で朝鮮に渡る。その間、邦子、とみ、とみの弟新一は、群馬の島村の母の実家に住むことになった。とみは島村の小学校に転入し、母の実家で養蚕業の実際を身近に体験する。

 しばらくして、とみは再び新潟の小学校に転入する。高等女学校もいくつか転校するが、神戸第一高等女学校を首席で卒業。大学は日本女子大英文科を卒業。その後渡米し、コロンビア大学大学院、バーナード女子大、ジョンズ・ホプキンズ大学などで学ぶ。とみのこのようなアメリカの大学生活で得た英語力は、彼女のその後の活動を大いに助けることになった。

つづく