人生意気に感ず「シーボルトと娘の物語を読んで。追放、再開、イネは最初の女医に」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「シーボルトと娘の物語を読んで。追放、再開、イネは最初の女医に」

◇「銀のさじーシーボルトの娘の物語」を10月31日読了し感動した。銀のさじを持つ異形の女性いねはオランダの名医シーボルトと遊女たきとの間に長崎の出島で生まれた。それは文政10(1827)年のこと。女性の地位が格段に低かったこと、異国人との混血児として注目されいじめられる中でいねは耐えた。シーボルトは優れた医術で人を助け「神の医」、「奇跡の人」と呼ばれたが日本国の地図をオランダに送ろうとしたことが発覚し国外追放になる。父なき後の母と娘は悲惨だった。母たきは再婚する。たきはシーボルトが最初に愛した日本女性でシーボルトはタク、オタクサンと呼んだ。彼は植物学者でもあり可憐な紫陽花をたきに重ね、その学名にオタクサを入れた。

 長崎の港を船が出て行く時、小舟に乗って手を振る母子の姿をシーボルトは涙で見た。

 シーボルトに学んだ医学者は多かった。そういう人たちはいねにシーボルトの素晴らしさを語った。いねは父を慕い、いつしか自分も医師になろうと決意する。しかし女に学問は不要という時代であった。

 ある時シーボルトに恩を受け弟子でもあった人物がいねに語った。「あなたは出島で生まれた唯一人の女。先生は無事な出産を期してご自分であなたを取り上げられた」と。

 いねはシーボルト縁の人々に支えられオランダ語と医学を学び不思議な運命を辿った。いねは産科の女医となり出産が不浄扱いされている風習に憤る。土蔵の中や地面にむしろをしいて出産するところもあったのだ。いねは言った。「生命の誕生ほど厳粛で尊いことはない。不浄扱いは間違った風習です」

 時代は大きく変化し日本は諸国に港を開くようになった。安政5(1858)年、オランダとの間に通商上条約が結ばれシーボルトの追放命令は解除され、いねは父との再会の時を迎える。白髪の威風堂々の紳士が言った。「イネ、イネデスネ」、「はい」、「オタクサ、ワタシノオタクサ、ドコニイマス」。

 シーボルトはいねの見事な成人ぶりを見た。そして日本で最初の女医になったことを知った。いねが髪に刺した銀のさじを渡すとシーボルトは「オオ、ワタシノサジ」と叫んだ。シーボルトは70歳で永眠、いねは77歳まで生きた。私はかねてシーボルトが開いた鳴滝塾に注目してきた。多くの優秀な日本人がここで学んだ。その門下にはオランダ流の牛痘苗接種を始めた伊東玄朴、開国論で罰せられた高野長英等がいた。シーボルトの影響は大きい。(読者に感謝)