シベリア強制抑留 望郷の叫び 一〇二 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一〇二

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 青柳さんたちは、規定の太さの木を選び、根本の雪を除いて、作業の場所をつくる。見上げると黒い松の巨木が天を突くようにそびえている。巨木は切れるものなら切ってみろとばかりの威圧感を示している。これの下敷きになったらひとたまりもないだろうと青柳さんは背筋が寒くなるのを覚えた。巨木との対話が始まろうとしていた。木が倒れる方向を見定め、そちらの方向の幹に斧をふるって斜めの切り口をつくり、その反対側から、大きな両引きのノコギリで二人でひき始める。二人の呼吸が合わないとなかなか進まない。反対側の切り口を目指してノコギリの刃を進めるが思い通りに進まない。刃先の方向がずれると巨木の重心は切り口に向かわず、想定外の方向に倒れることになる。その下敷きになって命を失う日本人は多くいた。青柳さんたちは長い時間をかけ、何度も刃先の軌道修正をしながら、ようやく目的を遂げようとしていた。ミシミシときしむ音が始まった。青柳さんと相棒は顔を見合わせた。やったなと互いの目が語っている。

「倒れるぞ、逃げろ」

 青柳さんは大声で叫んだ。二人が身を引くと同時に、巨木は森中を震わすような咆哮を上げて倒れた。ドドーと地響きがして、同時に根本から離れた太い幹が白い切り口を見せて跳ね上がった。青柳さんは出現した切り口をじっと見つめていた。無数の年輪が詰まっている。それは、この酷寒の凍土で長い年月を耐え抜いた生命力のしたたかさを物語っていた。青柳さんは一仕事終えたという達成感とともに、森の木々の生命力に触れた感慨にしばしひたっていた。

 青柳さんの身に事件が起きたのは、やっとの思いで切り倒したこの巨木の枝を落としている時であった。振り下ろした斧の先が、わずかの手元の狂いから幹の表面をすべり、右足の防寒靴の上に落ちた。瞬間、親指の付け根から激痛が走った。斧の刃は防寒靴の先をざっくりと切り裂き骨にまで達していた。すんでのところで、指の切断までゆくところであった。このような事故は伐採に当る人々の間では常に起きていたのである。半世紀以上たった今でも冬になると痛みを覚える。また、親指の先は常に感覚が鈍くなっているのである。

つづく