シベリア強制抑留 望郷の叫び 九十一 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 九十一

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 その日の夜、仮宿舎で休んでいると、戸の外で何がドサッと倒れるような音がした。開けてみると、顔面血だらけの兵士が四つん這いでうめいている。自爆を決行し死にきれなかった兵士である。このような兵士が、暗闇から芋虫がはうように続いた。顔の色が変色した者、足がない者、片手が千切れている者、目が見えない者、まさに地獄の淵から這い出してきた兵士たちであった。

 これは、敗戦という事実が兵士に与えた衝撃の大きさを物語る。このように「新国日本」が敗戦を受け入れることは、一般の兵士にとっても大変なことであった。

 

三 日本国内の動き、ついに天皇の二度の聖断下る

 

 死を賭けて戦うということで頭の中がいっぱいの数百万の兵士に、終戦を受け入れさせることは容易なことではない。

 その終戦を国家として決定するということは日本の歴史上かつてない一大事であった。それに至るまで日本国内では、政府の要人をはじめ戦争指導者たちの戦争終結か続行かをめぐる苦闘が続いていた。日本と手を結んでいたイタリア、ドイツはすでに無条件降伏をしていたから、日本にむけられる連合軍の力はこれから幾倍にも増強されることは明らかであり、日ごとに激化する本土空襲に有効な反撃もできず、客観的には、日本に勝ち目がないことは明らかであった。しかし、多くの指導者はなお、本土決戦を強硬に主張して譲らなかった。

 日本民族の運命を左右するこのような待ったなしの状況で、天皇の果たした役割は大きかった。ここでは『侍従長の回想』(藤田尚徳)と木戸日記を参考にしながら、ポツダム宣言受諾に至る経緯を振り返ってみたい。

 昭和二十年七月二十六日、日本に無条件降伏状を求めるポツダム宣言が発せられた。それには、日本がそれ以外の選択をすれば、完全なる壊滅あるのみ、とあった。

 これに対し、政府は、「黙殺」の対ソをとることにし、「あくまで、戦争遂行に邁進する」と発表した。連合軍は、日本がポツダム宣言を拒否したものとして、日本政府が夢想だにしなかった悪夢のごとき一撃を日本国の頭上に振り下ろしたのである。これが八月六日早朝の広島市に対する原子爆弾の投下であった。

 

つづく