シベリア強制抑留 望郷の叫び 八十八
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。
昭和二十年五月七日、ついにドイツは無条件降伏をする。ソ連の変化を恐れた日本は、同年五月一日、佐藤大使に日ソ友好強化交渉を開始するよう訓令を出した。しかし、これに対して佐藤大使は、六月六日、日ソ友好強化は絶望である旨を進言してきたのであった。
なお、このころ日本の運命を決める重大事がアメリカ国内で進行していた。国中の科学者を動員し、空前の巨費を投じて、原爆製造計画が着々と進められていたのである。そして、ついに昭和二十年四月二十五日、米大統領トルーマンに対し、四ヶ月以内に原子爆弾を完成させるという報告書が提出されたのである。
一方、ドイツが無条件降伏する前後、ソ連軍兵士を満載した夥しい列車が、津波が寄せるようにシベリアへ向かっていた。ソ連の参戦は刻々と迫っていたのだ。
しかし、青柳さんのような一般の兵士や満州のソ連国境近くにいた開拓農民など一般民間人の多くはこの事実を知らなかった。
行事は続いた。朝鮮半島の羅南から北上し、中国の清津、図門、綏陽とソ連国境に近づいていった。昭和二十年七月ごろには、朝鮮の日本軍は留守番兵だけを残し、ほとんどが満州領内へ移動した。
ソ連黒球に近い山の中で、青柳さんたちは横穴を掘らされていた。新たな陣地で、無線隊の作業場を構築くるためである。八月に入ると、北から朝鮮へ向かって急ぐ人々の姿も目立ち、不気味な緊迫感が流れ始めていた。多くの兵士たちは何かが起こることを肌で感じていた。
実はこのころ、日本では大変なことが起きていた。
昭和二十年八月六日、ヒロシマに原子爆弾投下
〃 八月九日、長崎に原子爆弾投下
そして八月九日、ついにソ連軍は、北満、北朝鮮、樺太に侵攻を開始した。ゴーゴーと大地を揺るがすように、戦車の大軍がソ満国境を越えて攻め込んできた。空では、両方から飛来した爆撃機の編隊が轟音を立てて南下していった。
このころ、青柳さんたちは夜だというのに連隊長の十代な話があると言われた。山地の全部隊が集結したとき、連隊長は壇上に立って、悲壮な表情で叫んだ。
「本日より、我々日本軍は、ソ連軍と交戦することになった。皇国の興廃がかかった最後の戦いとなるだろう。一同、沈着に、そして大和魂を発揮して勇猛に命をかけて戦い抜け」
そして各隊は、それぞれ指示に従って各地へ向かった。
つづく