人生意気に感ず「信じ難い台風7号は私たちへの天の警告。終戦記念日に天皇制を思う」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「信じ難い台風7号は私たちへの天の警告。終戦記念日に天皇制を思う」

◇大雨特別警報の画面に釘付けになった。逆巻く濁流は狂った地球の恐怖を突きつける。テレビは鳥取市の北部と南部でこれまで経験したことのない危険度最高レベル5を報じ、直ちに身の安全を確保するよう訴えている。追い打ちをかけるように佐治川ダムの放流である。これにより川の水量が増えるのだ。この状況は他人事とは思えない。当初台風7号は東京から前橋のラインを向うかと報じられていた。ちょっとした気象状況の変化で鳥取県の出来事は前橋市のことに変じ得ることを示している。

 私は昭和22年のキャサリン台風を想像した。小学校1年だった。朝の登校時、通学路を跨ぐ二つの川は牙をむく流れと化し、私は恐怖に駆られた。学校は直ぐに下校となったが二つの橋は私の通過後に流され、未曾有の大災害となった。この時は勢多郡地区に集中して雨が降ったが吾妻地区だったらダムがないので大変だったということが報じられた。これが八ッ場ダム建設の一つの契機となった。後に県会議員となり八ッ場ダム建設委員長となったのは不思議な巡り合わせというべきか。当時「線状降水帯」という用語はなかった。超異常ともいうべき状況下、今後群馬の多くのダムでその許容量が限界に達し下流に向けて放流ということがあり得るかも知れない。鳥取県で今起きていることは災害の少ない本県に対する天の警告を受け止めねばならない。

◇台風7号が襲った8月15日は終戦記念であった。天皇のお言葉の中に過去を振り返り深く反省するという文言があった。私は昭和天皇が第二次世界大戦に関わった姿を想像した。昭和20年8月15日のいわゆる「玉音放送」の時4歳だった私はその意味が分からないまま社会の激浪の中に放り出されていたのだった。敗戦による進駐軍の支配を前に社会には流言飛語が渦巻いていた。我が家は旧宮城村の最奥地に逃れ開墾生活に入り、これは私の人生の原点となった。私にとっての人生の一大ドラマが始まったのだ。世の中は変わり過ぎた。台風7号の信じ難い濁流を見て、これはこれから加速するであろう社会の変化の序曲に過ぎないと思った。

 お言葉を発する天皇の姿は国民に安心感を与えるものだ。天皇は象徴であり国政に関する権能を有しないが、国民と共に歩んだ皇室の長い歴史には憲法の定め以上にものがあることは否定できない。木の葉のように漂う日本を繋ぎ止めるものは伝統の文化であり血と汗で守ってきた歴史である。その柱としての皇室の存在を天皇の姿を見て痛感した。(読者に感謝)