シベリア強制抑留 望郷の叫び 八十三 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 八十三

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 昭和十六年十二月、日本は太平洋戦争に突入。真珠湾攻撃に始まった緒戦は、破竹の勢いで進撃した日本も時とともに不利な状況に追い込まれてゆく。

 青柳由造さんに召集令状が出され、ふるさとの役場から東芝工場に入隊通知が届けられたのは昭和二十年一月のことであった。青柳さんは、前年昭和十九年十九歳で徴兵検査を受け、乙種合格となっていた。本来、満二十歳でこの検査を受けるわけであるが、戦況の悪化とともに繰り上げで検査が行われたのである。

 このころ、一般の国民には、戦争に関する重要なことは知らされなかったが、戦況は深刻の度を増していた。昭和十七年六月、ハワイ諸島北西のミッドウェーの海戦における敗北は、太平洋戦争の転機を意味した。この敗北によって日本海軍は太平洋における制空権を実質的に失ったからである。

 そして、昭和十八年、ニューギニアの先、ガダルカナルの戦いは太平洋戦争の天王山といわれたが、補給が続かず将兵は人肉も食うほどの飢えに悩まされ、ガ島は“餓島”と呼ばれたほど悲惨を極めた。この戦いの敗北により、戦局の行先は極めて困難であることが誰の目にも明らかになった。連合艦隊司令長官山本五十六が乗った飛行機がニューギニアのラバウルを飛び立って間もなく、暗号を解読して待ち構えていた米軍機により、ブーゲンビルの上空で撃墜されたのは昭和十八年四月のことであった。

 このようにして、太平洋におけるアメリカ軍の攻勢はじわじわと日本本土に近づいていた。そして昭和十九年、サイパン島、グアム島がアメリカ軍の手に落ちた。地図で見るとこれらの島から硫黄島が近い。空の要塞とされたB29を主力とした日本本土爆撃は昭和十九年秋から本格化し、ついにサイパン島を基地とした東京大空襲が昭和二十年三月九日に行われた。

 

つづく