シベリア強制抑留 望郷の叫び 七十九
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。
ドラの音が港に響き、船は動き出した。シベリアの丘や山や建物が遠ざかる。あの山の遥かかなたで、まだ収容所で苦しむ人々の姿が目に浮かぶ。友よ頑張ってくれ、望みを捨てないで、帰れる日まで、と塩原さんは祈った。
ソ連の風景が芥子粒のように小さくなり、やがて視界から完全に消えた。甲板でじっと見詰めていた人々の間から静かなどよめきが上がった。それは、苦しい抑留生活から真実解放されたことを誰もが実感した瞬間であった。
船は静かな日本海を滑るように南下している。塩原さんは、収容所の生活を思い出していた。青く光るのどかな海を見ていると、水平線の彼方で繰り広げられた地獄の世界が嘘のように思えた。船はとっぷりと暮れた海を走り続ける。夜は更けていたが、船は刻々と日本に近づいていると思うと胸が高鳴って眠るどころではない。興奮のうちに二晩が過ぎようとしていた。ウトウトしてふと目を覚ますと船は泊まっていた。
日本に着いたのだ。
塩原さんは直感し、とっさに甲板に駆け上がった。2月6日の未明、舞鶴港はまだ暗い闇に包まれていたが、闇の濃淡の中に島影とおぼしきものがうっすらと感じられる。
そして、心地よい潮の匂いとひたひたと舷側を打つ波の音は、これまでとは全く異質な世界の息吹と感じられた。塩原さんは狂おしいほどに憧れた故国日本に抱かれていることを肌で感じつつ、夜の帳が上がるのを息を殺して待った。
やがて夜は白々と明け、湾内の様子が朝もやの中に浮き上がってきた。竹藪を背にした農家の集落が見える。家の間から、ゆっくりと煙が立ち昇っている。前方の岸には漁船がつながれその上に小さな木造の家並みが続く。鶏の鳴き声が聞こえる。
「日本だ」
「ついに日本に帰ったんだ」
人々は重なるように身を乗り出し目の前の光景をじっと食い入るように見詰めている。
つづく