人生意気に感ず「ハンセンの講演が迫る。重監房と人権の碑」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「ハンセンの講演が迫る。重監房と人権の碑」

◇7月9日、高崎市の沖町公民館でハンセン病の講演を行う。約1年小説「死の川を越えて」を連載して反響を得た。新聞で取り上げることに上毛新聞社内では議論があったようだ。踏み切ったことは英断であったと思う。心配されたようなことはなく読者から多くの励ましの手紙が寄せられた。私は事実を踏まえ、差別された人々の人権を尊重する立場を貫いた。「死の川」とは草津温泉の湯川のこと。ここに癩病を患った人々が暮らす集落があった。この川は強度の酸性故に生命の存在を許さなかった。その昔、生きられない患者を投げ込んだ話も伝わる。

 講演はハンセン病の歴史と草津の楽泉園のことを小説と絡ませて話すつもり。ある時、集落の女性さやはお腹に子どもを抱えて京都大学の医師を訪ねその話に励まされて産む決意を固める。実在した反権力の医師小笠原登は私の小説で一つの柱として重要な役割を果たす。ハンセン病に対する誤解や迷信を増長させたものは国の誤った隔離政策であった。小笠原医師はこの政策に強く反対した。当時の医師は感染を恐れ、決して患者に触れることをしなかったが小笠原は丁寧に隅々まで触診した。その姿は聖者のようだと言われた。

 私の話は患者たちが国を訴える国賠訴訟に発展する。この訴訟の場で小笠原の生き様が生き生きと語られる。取り上げた証人は小笠原医師の京大の教え子で、国の隔離政策の責任者を務めた人物であった。この人物は自分が行った政策への反省も込めて国の隔離政策は誤りであったと明言した。原告側は第一審で勝訴したが被告の国は当然控訴の決意であった。時の行政トップは小泉首相であった。小泉氏は控訴断念を決断した。これを裏で支えたのが当時の官房長官

福田康夫さんである。

 私の小説は草津の人々が小笠原医師の墓地を訪ねて報告するところで終わる。その墓地はハンセンの患者たちが眠る無縁墓であった。私は愛知県あま市の園周寺を訪ねた。小笠原医師の生家の寺である。

 草津の楽泉園の一角には復元された重監房の近くに「人権の碑」がある。ここには患者たちの魂の叫びが刻まれている。私は人権の碑建設委員長として文面及び碑の建立に深く関わった。社会は差別を常につくり出す。これはハンセン病に限られたことではないのだ。この人権の碑にはこの思いが込められている。ハンセンの元患者の多くは帰らぬ人となっている。この社会から差別をなくすことがその人々の願いなのだ。(読者に感謝)