シベリア強制抑留 望郷の叫び 七十二 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 七十二

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 塩原さんは、ドイツ人捕虜のこと、日本人の団結について、次のように語ってくれた。

〈労働で外へ出たとき、ドイツ人捕虜の隊列とすれ違うことがありました。彼らは、和気あいあい、堂々として立派に見えました。日本人同士の団結が欠如していました。そのため、どうしても自己主義になり統率に欠けていたようです〉

 旧軍隊の階級制度の厳しさ、その中でも特に上官によるしごきは大変なものであった。何かというと殴った。そうすることによって精神を鍛え、強い兵士になれると信じられていた。特に初年兵は徹底的にしごかれた。このような階級制度に伴う残酷な習慣が、シベリア抑留のはじめ、収容所に持ち込まれたことが、収容所の生活を一層過酷なものとし、また、民主運動を異常に発展させる一因になったと考えられる。

 階級の一番下の者は虐待されるだけでなく厳しい仕事をより多く押しつけられた。初めての冬を越せないで多くの死者が出たが、その中には、このような旧軍隊における最下層に属する人が多かったという。

 作曲家の米山正夫は、コムソムリスクの収容されていた人であるが、次のように証言している。

「収容所では、最初のうち、軍隊の厳しい階級制度がありました。その方がソ連も管理しやすかったのでしょう。私は一兵卒ですから、こき使われピンタされる毎日でした。私の友人は、栄養失調の上に、上官にこづきまわされ、殴られたあげく、オレはソ連兵ではなく、日本人によって殺された、と絶叫して死んでゆきました」

 また、ハバロフスクの収容所にいた歌手の三波春夫は、次のように語る。

「将校当番となった私は、朝から晩まで将校の下着の洗濯や食事の世話をしていました。将校の中にサルマタまで洗わせる者がいて、日頃から不快に思っていましたが、ついにある時、耐えられず激しく抗議しました。当時はまだ、旧軍隊の階級章もそのままで、兵隊と将校の間には軍隊当時そのままの厳しい階級制度が残っていて、上官の命令は絶対でしたから、私と将校の口論は、収容所内の注目の的となりました」

つづく