シベリア強制抑留 望郷の叫び 六十四 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 六十四

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。 

 

 助成の裁判官は、次のように刑を言い渡した。

― 帝国主義日本の大本営参謀として日本の資本主義政策を援助した。よってロシア共 和国憲法第58条の4項・資本主義援助罪により重労働25年に処す。

― 入ソして日本帝国主義のための情報収集に当たった。よって、ロシア共和国憲法第58条の6項・情報収集の罪により重労働25年に処す。

 合わせて50年の重労働かと思っていると、女性裁判長は

― ソ連邦国家の人道的配慮により、結論として重労働25年に処す。

と宣言した。

 ハバロフスクの各分所には、元参謀職のような重要な職務以外の任務にあったものも15年とか10年といった刑を受けている者が多数収容されていた。だから、いろいろなところから不気味な情報がもたらされていたのだ。

 平成16年に塩原さんとハバロフスクの各収容所跡を回った中で、第45特別収容所跡といわれる所があった。そこは、ハバロフスク市の中心近くにあり、車の往来の激しい大通りに面した建物で、現在は病院として使われている。ここには当時、元満州国皇帝の溥儀、その弟溥傑も収容されていたという。

 第21分所に入れられてから、塩原さんは不安で夜もろくろく眠れない日が続いた。

 そんな状態が続いたある日、塩原さんは呼び出され、収容所内の広い空き地の背の高い戸を開けて一歩踏み込んだとたん、塩原さんは異様な光景を目にして思わず息をのみ、立ち尽くした。小屋の中央の台の上には胸から下へ切り裂かれた死体、その脇にはぐにゃぐにゃと盛り上がった内蔵の山があった。頭蓋骨は外され頭部の横に置かれている。窓から斜めに差し込む陽光が凄惨な場面を色濃く浮き上がらせていた。光の輪の端には、どす黒い血のりがあり、その中にいくつかの肉片が漂っている。そして、生ぬるい異臭が血や肉を溶かして立ち上る濃い気体となって狭い空間にゆらゆらと立ち込めているようであった。

 解剖台の側に、一人のソ連の軍医が血で真っ赤に染まった手袋をゆっくりと外していた。軍医は壁のゴム手袋を指し、それで内臓を元の腹に納め、下の土間を掃除するよう、手真似で命令し、小屋から出て行った。

 

つづく