シベリア強制抑留 望郷の叫び 四十五
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載します。
私のこの手紙に対して数日後、塩原眞資さんから返事がきた。それには、「シベリアを離れるときは、こんなところに二度と来るものかと大地を蹴りつけたい気持ちだったのに、今、そのシベリアが非常に懐かしく思える。私の体験がお役にたつのなら、何でも喜んで話したい」と書かれていた。
塩原さんは、現在81歳。耳が少し遠くなったが身体はいたって健康である。シベリアから帰国した後は、前橋市の建設会社に勤務し、持ち前の忍耐力と誠実さで事業発展に貢献し、退職後は町の自治会長もつとめ、現在は前橋市田口町で悠々自適の生活を送っている。
〈日本は大きく変わりました。あの頃を思うと夢のようです〉
こう言って塩原眞資さんは、遠くを見るような目をして感慨深そうに若き日のシベリアを振り返る。
二 軍馬を殺して食べる
塩原さんは、「中島飛行機」で働いていたが、昭和19年3月に召集され満州に渡った。関東軍の中で通信の任務についていたが、吉林省延吉で終戦を迎えた(昭和20年8月15日)。
ソ連軍が満州に侵攻を開始したのは8月9日であった。8月17日、本部より全日本軍に対して即時戦闘行動停止命令が下されたが、満州方面の戦闘状態がおおむね終わったのは8月20日とされる。
塩原さんの部隊がソ連軍の突然の侵攻を受けたのは8月17日の夜であった。「ドドーン」、「ゴーゴー」と大地を震わせて戦車の音が迫ってきた。
塩原さんは12人の部下を持つ無線通信所の所長であった。その場所は本隊から遠く離れた山の中腹にあった。戦車の轟音は次第に山の麓に迫りつつあった。命よりも大切な物を敵に渡してはならない。塩原さんたちは必死で穴を掘り、通信機材や暗号書を埋めた。
命がけの作業を終え本隊に辿り着くと、兵舎はすでに空で慌ただしく走り去る軍用トラックの後ろ姿が闇に消えてゆく。
つづく