シベリア強制抑留 望郷の叫び 四十一 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 四十一

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載します。

 

 五百ルーブルというと二千円足らずの金である。私はお礼の仕方が分からず、これでよいのだろうかと思いながらドクターの消えた階段に向かって頭を下げていた。

 ロシアの医療制度では、医療費は医療保険によってまかなわれるが、保険料は勤務先の企業や団体が支払い、年金生活者や失業者の保険料は、国や州などの行政機関が支払う(ただし、事業活動をしている者などは本人が保険料を支払う)。したがって、国民は無料で医療を受けられるのである。この制度の趣旨からして、外国人は別で、有料とされても仕方ないとも考えられるが、青柳さんは無料というありがたい扱いを受けた。ここでも、私たちは、ロシア人の温かい心に接した思いであった。

 タチアナさん親子は、一時は自分の客が大変なことになったと驚愕している様子であったが、事態が好転していることを知って、やっと人の良さそうな元の笑顔に戻っていた。

 青柳さんはうっすらと目を開けた。その顔に小さな生気が蘇っていた。

 青柳さんは、先ほどロシア民謡を歌っているうちに身体の力が次第に抜けていくように感じた。意識が薄れてゆくなかで、シベリアの強制抑留の収容所へ向かって暗い穴を落ちて行くような恐怖感にとらわれていた。日本へ帰れなくなる、そう思いつつ青柳さんは真っ暗な世界に入り込んで行った。

 青柳さんは、暗い冬のシベリアの森で伐採の作業に当たっていた。初めてのシベリアの冬で命を落としたはずの男たちが働いている。その一人が、おまえは祖国に帰ったのではないかと言う。青柳さんはその通りだが、君たちのことが心配で再びシベリアに墓参りに来たのだが、ここに迷い込んだ。すぐに帰りたいのだがどうしたらよいか分からない、と答える。昔の抑留者たちは、俺たちは淋しいのだから、帰るなどと言わないで一緒にいてくれ、と言って青柳さんの腕を掴んで森の奥へ引き入れようとする。青柳さんは、それに、必死で抵抗し足を踏ん張った。後方で、青柳さん頑張って、と声援を送る声がした。その時、青柳さんは明るい光の世界にいる自分を感じて我に返った。人々の顔がのぞき込んでいる。

「青柳さん良かったね、意識が戻ったね」

 皆がそれぞれに叫んだ。

つづく