シベリア強制抑留 望郷の叫び 三十六 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 三十六

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載します。

 

 とにかく、ビロビジャンの林の中の無名の日本人墓地とは格別の違いである。広いシベリアの各地で亡くなった日本人抑留者は六万人を超えるのに、そのほとんどは遺骨の所在すら分からない状態であるから、それらについては当然のことながら墓らしき墓もない。したがって、このハバロフスクの日本人墓地はシベリア全土に眠る日本人の墓としての象徴的な意味があると私は思った。

 私たちは、そういう思いを込めて、日本人抑留者の墓という碑に花を捧げ、線香を立て、手を合せた。小泉首相も訪れたというこの墓地は静まり返り、折しも真昼の太陽が真上にあってじりじりと私たちを照りつけていた。雑草も花も短いシベリアの夏を精一杯生きているようである。

 青柳さんは碑の前に座し、ビロビジャンの時のように経典を読み始めた。よどみない声があたりの日本人の墓の上に流れ、それは隣接するロシア人の墓群の中にも伝わっていくようである。塩原さんは青柳さんの後ろで一心に手を合せて祈っている。ビロビジャンの墓で、また平和慰霊公苑で、塩原さんは、俺だけ日本に帰って悪かったと声をあげて泣いたが、祖国に帰れなかった友を思う気持ちは青柳さんも同じである。あの時は、他を顧みる余裕はなかった。自分のことを考えることが精一杯であった。数十年の生を得て再びシベリアの地に立ってみると、同胞の無念さが痛いほど分かる。

 頭上の太陽は突き刺すような光を容赦なく私たちに浴びせていた。風はそよりともせず、とにかく熱い。私たちは、時々動いたりして直射日光を避ける工夫をしていたが、青柳さんは微動だにしない。青柳さんの読経の声はますます高まり、その後ろ姿は八十に近い老人のものではなく、岩のように力強く見えた。

〈皆さん、どうか安らかにお眠り下さい。皆さんの死を決して無駄にしないように、私は頑張ります〉

 緊張した空気の中で、私は祈っていた。

 つづく