人生意気に感ず「ふるさと未来塾は緊迫のキューバの対決、翌年ケネディはあの世に。ウクライナと重ねて | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「ふるさと未来塾は緊迫のキューバの対決、翌年ケネディはあの世に。ウクライナと重ねて

◇県内新規感染者は2,300人を超えた。第8波の猛威の中、私は「ふるさと未来塾」(26日)でケネディとフルシチョフの対決を語った。あの時の核戦争の瀬戸際状況は現在のウクライナ問題と重なる。私はホワイトボードにメキシコ湾周辺の地図を描いた。フロリダ半島沖のキューバはアメリカの胸元に突きつけられた「赤いナイフ」だった。米ソ冷戦の最中、カストロはこの島の独裁政権を武力で倒す。カストロ政権とフルシチョフのソ連は急接近。キューバに核ミサイルの基地造りが密かに進められた。アメリカにとって正にその存在を脅かされるナイフだった。ケネディはキューバを囲む海上封鎖を決意し、国民にテレビ・ラジオの特別放送で説明する。フルシチョフはケネディの本気度とアメリカ国内の軍の異常な動きを知る。フルシチョフもアメリカとの全面対決は避けられないことは十分承知していた。当時、米ソの核戦力はアメリカが遙かに勝っていた。だからこそフルシチョフはキューバに核基地を設けて劣勢の挽回を期したのであった。

 キューバ危機は1962年10月15日から10月28日の期間で海上封鎖の決定は10月21日であった。この緊迫の状況の中で、10月25日、国連安保理で米ソの劇的な対決があった。私は、スティーブンソン対ゾーリンの対決につき熱を入れて語った。アメリカ代表スティーブンソンの進め方は巧妙であった。「アメリカの安全を脅かす核ミサイルをキューバに持ち込むことは何もしていない」と先ずゾーリンに語らせた上で厳しい追及の姿勢を示す。そのやりとりの場面、ゾーリンを追い詰める光景は並の舞台劇を遙かに超える。事実は小説より奇なりであった。

 ゾーリン「私はアメリカの法廷に立たされたのではない」、スティーブンソン「あなたは今世界世論の法廷に立たされているのです。さあ、真実を話して下さい」、ゾーリン「そんな検事のような質問には答えられない」、スティーブンソン「地獄が凍り付く回答をお待ちしますよ」。ここでスティーブンソンは決定的な航空写真を示した。そこには核弾頭保管施設を初めミサイル基地建設の生々しい動きが決定的な証拠として示されていた。世論の法廷は劇的な判決を下した。こうしてキューバ危機は幕を閉じる。そしてその翌年、1963年1月22日、ケネディはテキサスに於ける凶弾によって人生の幕を閉じた。塾では葬儀に臨むキャロラインと息子のケネディジュニアの姿を紹介した。(読者に感謝)