シベリア強制抑留 望郷の叫び 二 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

シベリア強制抑留 望郷の叫び 二

※土日祝日が中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

一、シベリアの中心都市ハバロフスクへ向けて

 

 六十万人もの日本人が戦争が終わったのちに、シベリアへ強制連行された。そして、酷寒、飢え、重労働に耐えられず死んだ人は6万人以上に及んだ。人々の唯一の願いは「ダモイ」(故郷へ帰ること)だった。せめて故国の山を見てから死にたいと言い続けながら、その悲願もかなわず凍土に埋もれた人も多かった。生還者も現在、多くは80歳を超える。シベリア強制抑留とは何だったのか、21世紀の現在、改めてそれを考えてみたい。そんな思いで私たちは、ハバロフスクに向かうことになった。

 新潟空港の空は重い雲で覆われていた。平成16年7月19日30分、ダリアビア航空H8310便は機首を西へ向けて飛び立った。機は間もなく日本海上空に出た。雲の切れ間から青い海面がチラッと見えてすぐに隠れた。

「日本海です」

 私がささやくと、二人の老人は目を閉じたまま、微かにうなずいたように見えた。二人の瞼の奥には半世紀以上も昔の光景が浮かんでいるに違いない、幾度も死線を越えてやっとナホトカ港に着き、帰還船に乗り込んでも、まだ故国に帰れると信じることができなかった。停船を命じられ呼び戻されはしないかという恐怖におののいていたのだ。人々は、実際にそのような例を耳にしていた。港の光景が芥子粒のように小さくなり、やがて視界から消えたとき、やっと、帰国できるのだという実感が胸の中にじわじわと静かに広がってくるのであった。そして、その時、日本海の上にいるということが、信じられないほど嬉しかったという。

 出発を前にしたある日、81歳の塩原眞資さんは、54年前を振り返ってしみじみと語った。

「ナホトカの港を去る時、私は、大地を蹴りつけて、こんな所に二度とくるものかと心の中で叫び、しがみつくようにして高砂丸に乗り込みましたよ」

 今、眞資さんの隣で黙想しているかのようにじっと動かない青柳由造さんも、その点は同じであろう。

 しかし、シベリアへ一緒に行きませんかと私が誘うと、二人は矢も盾もたまらぬ様子で少年のように浮き立った。

 塩原さんは言った。

「あの広大な大陸の地平線や悠然と海のように流れるアムール川を自由の身で見ることができると思うと、しぼんだ年寄りのこの胸が、なんだか膨らむような気がします」

 また、塩原さんより2歳年下の青柳さんは、心臓に多少心配な点があったが、何としてもシベリア行きを果たしたいと、毎日、かなりの重量のペットボトルを背負って何キロも歩いて体力の調整に励んでいたという。