甦る田中正造 ー死の川に抗してー  第二十九話 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

 甦る田中正造 ー死の川に抗してー  第二十九話

土日祝日は、毎日新聞に連載された小説「甦る田中正造」を紹介致します。 

 八輌の馬車と百を超える騎兵は取り押さえられた正造を振り返ることもせず疾走していった。一九〇一(明治三四)年十二月十一日付の民声新聞によれば正造はその時の状況を次のように語った。

 

拝跪

 

 

(はいき)(ひざまずくこと)の一刹那、直ちに警官に取り押さえられ、仰向けに倒れたるを以て、ついにその目的を達するあたわざりしも、起き上がりたる時に、竜駕を三、四間の距離に認め得たるが故に、恐れ多くも私の挙動は天聞に達し得たりと信ず。侍従官来りて、私の訴状を取り上げんとせる由なるも、麹町警察署長はその職責なりとの理由を以て持ち去りたるが、返す返すも残念至極の次第なり」

 正造は直訴の翌日、意外にもあっさり解放された。取り調べも丁寧で罪人扱いではなかったと言われる。大浦兼武警視総監は部下に注意を与え寛大な拠置をとらせたらしい。ただ釈放の理由をつくろうために狂人扱いにしたと思われる。荒畑寒村は「谷中村滅亡史」で、政府が驚駭(きょうがい)し周章狼狽窮余の策として発狂者となしたと記述している。世間は正造の扱いが意外に軽いことに驚いた。私は、これには政府の熟慮と計算があったに違いないと思う。

 それは、帝国議会で正義の論調を繰り返し世論の中には支持も多く、天皇も関心を示していたと言われることである。特に直前の亡国演説は大きな反響を呼んでいたのだ。議員を辞して直訴を決行したことに対し、罪人として厳しく罰するなら与論を敵に回す恐れすらある。今日、流行の表現を使えば天皇のあたりを「忖度(そんたく)」した結果かもしれない。東京芝口の鉱毒事務所は直訴の報を直ちに被害地1二か村に打電した。地元の人たちの反響がどうであったかは想像に余りある。

つづく