甦る田中正造 ー死の川に抗してー 第二十八話
土日祝日は、毎日新聞に連載された小説「甦る田中正造」を紹介致します。
「蹄の音だ」
群衆の中から声がした。正造は僅かに動いて状況を目測した。その時である、群衆に大きな叫びが生じた。下野日日新聞に載った騎兵隊上原小隊長の目撃談がある。
「貴族院を左にして、衆議院議長官舎側面に差し掛かりまして、中村中尉殿の率いる前衛と宮内省の馬車四台、ならびに御旗もすでに行きすぎまして、警護の警官達も熱心に敬礼致しておりまする隙に乗じて、衆議院議長官舎側面の群衆を押し分けて一直線に進み出た男がありました」
黒いかたまりのようなものが激しく動いた。紋付袴の怪異な風貌の男が馬車に向かって走っている。それだけで何か異常事態出現は明らかであった。群集にどよめきが起きた。男は手にした何かを掲げながら「お願いがあります」と大声で叫んでいる。騎馬の兵が走った。荒畑寒村は「谷中村滅亡史」でこの場面を「紫電飛び白刃ひらめきて兵馬動く」と描写する。白刃を振りかざした馬上の男は騎兵特務曹長伊地知季盛であった。力まかせに長刀を振り下ろす姿に一瞬人々は目を閉じた。誰もが血しぶきをあげて倒れる男を想像した。しかし人々は、次の瞬間意外な光景を見て声を上げた。
伊地知はバランスを崩して馬もろとも転倒したのだ。正造は生きていた。一瞬の差であたりは鮮血で染められたに違いない。もしそうなれば、直訴のその後の展開は大いに異なったものになったであろう。正造は「失敗した。残念至極」としきりに述懐したが、その後の経過を見ると決してそうではなかった。
つづく