甦る田中正造 ー死の川に抗してー  第十九話 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

 甦る田中正造 ー死の川に抗してー  第十九話

土日祝日は、毎日新聞に連載された小説「甦る田中正造」を紹介致します。 

 黒い石碑には次のように刻まれていた。

「前夜から雲竜寺に結集した二千五百余名の人々は、翌朝九時から大挙して同寺を出発し途中警察官と小競り合いを起こしながら正午頃、現明和町に到着した。ここで人々は、馬船各一隻をつんだ二台の台八車を先頭に利根川に向かったが、その手前同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水路)にさしかかったところで待受けた三百余の警官に阻まれ多くの犠牲者を出して四散した。捕縛された被害民十五名は近くの真如院に連行された。翌日以降の捜査で総数百余名が逮捕され、うち五十一名が凶徒聚衆罪等で起訴された」

 これが碑文が語る川俣事件のポイントである。碑文では続く文で、地域の有志が村医を呼んで負傷者に応急手当を施し、炊き出しで握り飯を提供するなど救済に勤めたこと、被害民など関係者はこれに深く感銘しこれを後世に伝えたこと、及び田中正造はその後政府に失望し、衆議院を辞し天皇に直訴したこと等が刻まれている。

 この碑文にある「多くの犠牲」、「医師による応急手当」の表現からも惨状の一端が窺われる。私は高鳴る胸を抑えて近くの真如院に向かった。直線距離にして数百メートルの所にあるその寺院は廃寺に近い状態でひっそりとたたずんでいた。目をつむると野戦病院のような狂乱の光景が甦る。この真如院の正面は高い堤で視界が遮られている。その堤に登ると、そこには別の世界のようにのどかな利根川の風景が遥か彼方まで広がっていた。

 碑文ではただ「多くの犠牲者」と記述するのみであるが、永島与八の著書には生々しい光景が描かれていた。そこでは警官がサーベルをふるって手当り次第に殴ったことなどが記述されている。まるで戦争の如き有様である。捕えられた者は数珠つなぎにされて館林署に送られたが、著者の永島だけは足腰が立たないので人力車で送られることになった。車が揺れると痛さに耐えられず、「ゆるゆる引いてくれ」と叫んだという。

 この川俣事件のことは、地元の「下野新聞」を初めとした各紙が一層詳しく報じた。そして、特に注目されるのは巡査の抜剣と憲兵の発砲命令についての記述である。

つづく