人生意気に感ず「らい患者浅井あいさんの素晴らしい人生」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「らい患者浅井あいさんの素晴らしい人生」

 全盲のらい患者浅井あいさんのDVDを引き込まれて観た。大川正治夫人久代さんがパソコン教室に通いながら「試行錯誤を繰り返して」完成させた。題して「ふるさとの土になりたい」。ふるさととは金沢市のこと。浅井あいさんは、教師になりたくて県立女子師範附属高等小学校に入学する。生徒たちの写真が紹介される。聡明そうな生徒たちの姿とその後のあいさんの壮絶な人生を重ねると胸に迫るものがある。あいさんは小学校2年生の秋、らいが分かり退学となった。金沢市を去る時、別れの場所桜橋の河原で姉が言った。「ライ園へ行ったら必ず文学をやるんだよ」。草津の楽泉園に入りここの男性と結婚する。夫婦で失明し悲嘆に沈んでいたある時、あいさんは姉の幻を見てはっと気付いた。故郷の桜橋で言った姉の言葉があいさんの胸に甦ったのだ。そして短歌を作って楽泉園で一生を過ごそうと覚悟する。あいさんは点字の歌集をつくるために点字を習い始める。手指に感覚がないあいさんが目指したのは舌の先で読む舌読であった。あいさんは人の心の無情を恨む中で、自分だけでは幸せになれない、回りから良くならなければ駄目だと気付く。社会性の目覚めであった。短歌を通して心の目が開けていったことに心を打たれる。時が流れ新憲法の時代となりハンセンの患者にも徐々に光が当たる時代が来た。あいさんは、ハンセン病訴訟の原告の一人となり活動した。故郷の金沢に行ってハンセン病は遺伝病ではないことを訴えた。国に勝訴したことで人々のハンセン病に対する見方も変化していたのだ。あいさんを大変喜ばせる出来事が起きた。金沢大学附属小学校の卒業証書が渡されるという知らせが届いたのだ。金沢駅に着くと「あいさんお帰りなさい」と少年少女が迎えたのだ。この駅で母と別れてから長い年月が経っていた。「生きていてよかった」とあいさんが嬉しさをかみ締めた瞬間であった。

 あいさんの第四歌集「こころひたすら」の出版記念会が開かれた。姉がライ園に行ったら必ず文学をと言ってから50年が過ぎていた。この時あいさんは82歳になっていた。まだ生きて作歌に努めたいと語った。これは文学は人間にとって不可欠な心を育てる糧であることを物語る。あいさんは長いこと人間として生きることを許されない極限で命の炎を燃やし続けたのだ。それを支えたのは故郷への思いであり、心の底にあった文学の芽であったに違いない。あいさんは85歳で波乱の人生を終えた。私は中学を卒業する時、自暴自棄に陥ったことがあった。その時国語の女性教師が「君は何かを書き続けた方がいいですよ」と言ってくれた。これが心の支えになったことをあいさんの姿と重ねた。(読者に感謝)