人生意気に感ず「15歳のワリエワの涙と五輪の意義。勝利至上主義はスポーツ嫌いを生む」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「15歳のワリエワの涙と五輪の意義。勝利至上主義はスポーツ嫌いを生む」

◇冬の北京五輪が終った。ウクライナへの大軍の集結、ドーピング問題等が結び付いて迫るいかにもやりきれない五輪だった。五輪とは何か、平和の祭典とは何か、そもそもスポーツとは何かなどを改めて考えさせる大会であった。そしてロシア問題の象徴ともいうべき出来事がフィギュアスケートの場面であった。15歳のワリエワの転倒とそれを厳しく咎めるトウトベリゼコーチ、メディアは報じた。「なぜ攻めのすべりを諦めたの。説明しなさい」。マスクを外したコーチの鋭い表情と泣き崩れる少女。

 ワリエワはドーピング検査で陽性だった。なぜ出場を許したのか。背景に目的のために手段を選ばない勝利至上主義が感じられる。厳しい批判の目と自身の良心の呵責に心の芯が耐えられなかったに違いない。

 脂肪がつきやすくなる前の15歳くらいの選手はジャンプに有利と言われる。15・16歳で好成績を残し、少女たちは消えていく。名コーチといわれるトウトベリゼ氏の指導の下で20歳以上で活躍している選手はいないという事実に残酷さを想像する。転倒し敗退し泣き崩れる少女を厳しく咎めるコーチの姿に思いやりは感じられない。個人の人権より国家を優位に置く全体主義の政治体制と無縁ではないだろう。このような大国を制御できずに平和の祭典、スポーツの祭典を今後続けることは不可能ではないか。私の周辺からはオリンピックは止めた方がいいという声も聞かれるが無理はないと思われる。私は継続するにしても、その在り方を根本的に検討すべきだと考える。開催地もアテネだけにすべきだという声もあがっている。近代五輪の精神に立ち返るべき大きな節目に立っている。五輪が試されている、人類の良心が試されているのである。

◇五輪・パラリンピックの問題は国内のスポーツと不可分の関係にある。スポーツは教育の重要な一環であり心と体をつくるという基本的な役割を担っている。それが勝利至上主義とスポーツエリート重視からスポーツ嫌いをうんでいると言われる。長年スポーツに関わってオリンピック委員も務めたある専門家がかねて私に厳しく指摘された点である。ワリエワの涙の姿の真の意味を教室で語り合うべきである。日本に根付いている筈の思いやりの文化をスポーツに生かすべきだ。コロナ後の社会は真のスポーツと共にあると信じる。(読者に感謝)