「地裁に出頭」   2005年10月14日(金) | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

「地裁に出頭」   2005年10月14日(金)

※土日祝日は「議長日記」及び「議員日記」を連載します。上毛新聞社から出版したもので、議員時代の私の動きを海外の視察も含めて振り返ったものです。


 昨日、前橋地方裁判所の呼び出しを受け出頭した。山岸氏の仮処分命令申立事件の審尋期日が昨日だったのである。山岸氏は、議場の秩序を乱したことで、当分の間、議会棟に出入りすることを禁止されていた。この禁止処分の取消を求める申立事件である。

 熊谷裁判官の下で、山岸氏と私は同じテーブルで、事実関係の確認をめぐって発言した。山岸氏は大きな声を出していたが、必要ない発言も多かったようだ。私は、次のように説明した。

「当事者として中村個人を表示しているが、この事件で私は当事者になることが出来ない。出入り禁止等の決定が出来る者は議会事務局長なのであって、事実、事務局長が決定したのだ」

 私の主張が認められれば、山岸氏は、当事者を間違えたということであって、申立は、却下されることになるだろう。傍聴がきちんと行なわれることは、県民が県政に参加する機会の確保にもつながる重大なことなので、事態の推移をこの場を利用してお知らせしたいと思う。

 群馬県議会史第9巻が近く発行となるが、議長として、序文を依頼されていた。昨日、寸暇を見つけて書き上げた。その内容は、県民の皆さんにも県政を知る上で参考になると思うので、ここで紹介したい。

 「第9巻は、昭和54年から昭和62年までの県議会の動きなどが主な内容になっている。県議会史はその名が示す通り、県議会の歴史を記すものである。県議会の歩みを記録し後世に伝えることは、広く県民にとっても、又、県議会の活動を受け継ぐものにとっても重要なことである。現在の県議会の活動は、過去の歩みを踏まえ、その実績を受け継いで行なわれており、これを振り返ることは、未来を見据えた新たな問題にのぞむ場合にも重要だからである。
 明治12年に群馬県議会がスタートしてから、昭和54年で100年となるが、この間、世界の舞台に登場した日本は、様々な出来事を体験した。そして、群馬県も歴史の波にもまれながら大きく発展してきた。第9巻で扱う期間は、日本の社会が、国際社会の中でダイナミックな動きを示した時であり、群馬県もそれと連動して激しく動いた時期であった。そして、21世紀へ向かって力を蓄え、準備する時期でもあった。
 この間の、本県が関わる大きな動きといえば、まず、上越新幹線の完成と関越自動車道の開通がある。この時期、県民の車の保有台数も大幅に伸び、  マイカー社会の到来が現実化し、又、高速交通時代へ大きく近づく時代であった。
 教育の面では県立女子大学の開学があり、重大な社会問題としては、人口の高齢化が急速に進み始めたことがあげられる。
 又、県民の力を集結した明るい出来事としては、昭和58年の「あかぎ国体」がある。天皇、皇后をお迎えして輝かしい成果をおさめた。このことは、県民が自発的に力を合わせればいかなる難問も解決し得ることを示したものとして、その意義は大きい。21世紀の今日、県民参加の時代が進む中で、自信と勇気を与えてくれる出来事である。」
 昭和天皇は、会場にあふれる県民の姿を見て、半世紀前の群馬のある出来事を感慨深く振り返っておられたかもしれない。
 それは、1934年、昭和9年の陸軍大演習に来県された時のことである。時代は、風雲急を告げていた。満州国建国(昭和7年)、国際連盟脱退(昭和8年)などの動きの中で、日本全体が戦争突入に向けて急角度の軌跡を描いているときであった。
 この年、昭和天皇は、大演習の後、各地を行幸されたが、その時、有名な誤導事件も起きた。この時代の県議会の動きも興味あることである。歴史の教訓を生かして、群馬の発展を願うとき、このような過去の出来事に思いを致すことも大切なことである。