人生意気に感ず「中央政府との石田の交渉。日本交渉の成立。最後の船に石田の姿が」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「中央政府との石田の交渉。日本交渉の成立。最後の船に石田の姿が」

◇石田三郎は直立不動で将軍の前に立った。石田の胸にソ連軍暴虐・悲惨な民間人の姿、収容所の様々な出来事が瞬時に甦った。しかし石田ははっと気付くことがあった。まず突入した兵士が銃を使わなかったことだ。そして何より目の前のポチコフ中将の石田を見る目つきである。それは奴隷を見るような軽蔑したものではないのだ。石田の胸にずしりと感じるものがあった。こみあげる熱いものを抑えて石田は言った。

「私たちがなぜ作業拒否に出たか。私たちが要求することは中央政府に出した請願書に書いた通りであります」

「主なものは読んで承知している。いずれも外交文書としての内容を備えている」

「お願いがございます。ぜひ調査して私たちの要求を聞き入れて頂きたい。このために日本人は死を覚悟でがんばりました。私の命はどうなってもいい。他の日本人は処罰しないで頂きたい」

「検討しおって結論を出すから待て」

 会見は終った。形の上では武力弾圧に屈することになったが日本人の要求事項は事実上ほとんど受入れられた。石田を中心とした闘争指導者には禁固1年の刑が科された。瀬島龍三はその回顧録で述べる。「この闘争が成功したのは国際情勢の好転にも恵まれたからで、仮にこの闘争が4・5年前だったら惨憺たる結果に終ったかもしれない」

 この出来事は昭和32年12月19日から翌年3月11日にかけて行われた。この間鳩山内閣によって懸命な日ソ交渉が行われていた。首相自らモスクワに乗り込んで交渉をまとめ日ソ共同宣言の調印が行われたのは昭和31年10月9日のことであった。この宣言の中に抑留者の帰国が定められていた。この年の11月27日条約案は衆議院を通過した。ソ連はただちに動いた。最終の帰国集団を乗せた興安丸は12月26日舞鶴浜に入港した。その中にハバロフスク事件の責任者石田三郎の姿があった。一足先に帰国していた瀬島龍三は桟橋の上で石田三郎と抱き合って再会を喜びあった。死を覚悟して戦った日本男児石田の目に祖国の山河は限りなく温かく映った。

◇ロシア科学アカデミーの学者キリチェンコは「捕虜の身でスターリン体制に捨て身で挑んだサムライのドラマ」と讃え、この事件はフルシチョフにも報告されたと述べている。この事件はやりきれない暗闇であるソ連抑留問題の中でパッとあたりを明るくした光明であった。(読者に感謝)