ハバロフスク事件第一回「サムライたちは遂に立ち上がった。石田三郎は健康で祖国の土を踏むことが目的 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

ハバロフスク事件第一回「サムライたちは遂に立ち上がった。石田三郎は健康で祖国の土を踏むことが目的

◇私は「望郷の叫び」でハバロフスク事件を心を込めて書いた。

そこでは追い詰められた日本人が知恵を尽くして冷静に闘う姿があった。真の団結とは過酷な軍律によってではなく、内なる心から生まれることが示された。スターリンに「感謝状」を書いた自虐的な姿と正に対照的である。最後にロシア科学アカデミーの学者アレクセイ・キリチェンコの論文「シベリアのサムライたち」を紹介した。それは事件の指導者石田三郎たちのことを正しく評価しており、ロシア人の視線に心打たれるものを感じるからである。戦後76年を機にこの事件を何回かにわたって紹介することにした。

◇この事件は昭和30年12月19日に始まった。一般の抑留者は昭和25年の前年までに帰国したが元憲兵、特務機関員、秘密の通信業務に従事した者などはソ連に対する犯罪者として特別に裁判を受け戦犯として長期の刑に服していた。その中に元陸軍参謀の瀬島龍三やハバロフスク事件の中心人物石田三郎少佐の姿があった。この人たちは囚人ということでソ連の扱いは過酷を極めた。人々は「座して死を待つのか」というところまで追い詰められていた。病状悪化の人が続出する中でなされたあらゆる嘆願にも収容所当局は耳を貸そうとしなかった。班長会議では必死の意見が出た。「このままでは皆死んでしまう。自滅するより闘おう。座して死を待つのは日本人の恥だ」「同感だが闘うなら勝たねばならない。生きて祖国に帰ることだけを目的に耐えてきたことが水の泡になる」「まず作業拒否だ」「そうだ、そうだ」。

 かくして作業拒否が決まった。その上は代表を決め固い組織をつくり死を覚悟の交渉をやろうということになり班長会議が一致して推薦した人物は石田三郎であった。代表になるには死を覚悟する必要がった。石田は人々の熱意に動かされ決意した。石田は人々の前に立って言った。「私には親もない、妻もない。ただ祖国に対する熱い思いと丈夫な身体を持っています。代表をやれと言うなら命をかけてやります。皆さんが始めるからには力を合わせ最後まで闘い抜きましょう」。石田が強調したことがあった。それは暴力を使わないことだった。暴力は当局に弾圧の口実を与え、闘争の大義を失わせるからだ。769人日本人はほとんどが旧制中学卒業以上の知識人であった。闘争の最大の目的は全員が健康で祖国の土を踏むことだった。石田の声に会場は熱気で震えた。 明日へつづく

(読者に感謝)