人生意気に感ず「シベリア強制抑留地を訪ねて。日本人よ静かに眠れ。俺だけ帰って悪かった」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「シベリア強制抑留地を訪ねて。日本人よ静かに眠れ。俺だけ帰って悪かった」

◇私が前橋市田口町の塩原眞資さん及び青柳由造さんとハバロフスクに向ったのは平成16年7月であった。この二人はシベリア強制抑留の経験者であった。二人とも二度と来るものかと大地を蹴る思いでシベリアを離れたと語ったが、長い年月は二人の気持ちを大きく変えた。怨みの大地はなんとも懐かしい不思議な存在になっていた。既に大変高齢になっていた二人は体調る整えるために異常な執念を示して出発に備えた。ソ連極東の最大の都市ハバロフスクは大河アムール川に面しておりかつてシベリア強制抑留の拠点であった。しかし現在は強制抑留の悲惨な面影はなく近代的なビルの間を車が溢れるように走っていた。「“今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ 切なかろ”あの歌を思い出しますね」と私が切り出すと、「孤独に耐えるために皆この歌を歌いました」と二人は振り返った。

 ハバロフスク郊外の夏草が茂る中に白い墓標が立ち「日本人よ静かに眠れ」と書かれていた。強制抑留収容所の跡地であった。その時である。塩原さんは突然声を上げて泣き出した。「俺だけ先に帰って悪かった」。青柳さんは跪いて一心に読経している。零下30度を超える酷寒の中で毎日多くの日本人がバタバタと倒れた。死体を埋めるためにツルハシを打ち下ろすがコンクリートのようで歯が立たない。ある時森林伐採の作業から帰ると塩原さんはベッドの上に一枚の葉書を見て目を疑った。「ニイサン ゲンキデ ハヤクカエッテクダサイ ミナデマッテマス」。毎日夢に見た家族の妹の便りだった。「一番辛かったことは日本人同志が密告したり非難したりしてつるし上げることでした」と、二人はしみじみと振り返った。当時米ソ冷戦のただ中にあり、日本は共産主義に対する最前線であった。収容所はその縮図の感があった。労働歌が歌われ、赤旗が振られ戦争反対、資本主義撲滅が叫ばれた。多くの人が天皇制支持者だったとして壇上に立たされ、野次られ追求された。このような動きに強力することで早く帰国が許されると人々は考えた。二人は言う。「日本人同志の異国での醜い争いには本当に胸が痛みました」。このような状況の中で「スターリン大元師への感謝状」は作られた。スターリンを導きの星と讃え日本を強盗と非難する自虐的文書である。日本人収容者は争って署名した。私はこの文書を国立古文書館で特別に入手した。それは「望郷の叫び」の中で書いた。塩原さん青柳さんも既にこの世にいない。76年目の夏にかつてシベリアで苦しんだ人々の事実、その根っこにある歴史的事実を知ることが求められているのだ。(読者に感謝)