人生意気に感ず「東洋の魔女・円谷の死。アベベの快挙」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「東洋の魔女・円谷の死。アベベの快挙」

◇1964(昭和64)年、ついにアジア初の東京大会を迎えた。開催は10月10日。「世界中の秋晴れを集めたような東京の青空です」とNHKのアナウンサーは叫んだ。最終の聖火ランナーは原爆投下の広島市近郊で生まれた早稲田大の学生坂井義則だった。世界の情勢は風雲急を告げ2年前には世界が固唾を呑むキューバ危機が、そして前年(1963)にはケネディ大統領が暗殺された。日本の首相は「貧乏人は麦を食えばいい」と発言した池田勇人であった。この人は開会式の時、既にガンに侵され東京五輪と共に人生の幕を閉じた。アジア初ということで画期的な大会であったが、日本とすれば敗戦から立派に立ち上がった姿を世界に示す絶好の機会と考えていた。事実、世界の人々は軍国主義から一変し平和憲法の下で見事に立ち上がった新生日本の姿を見たのである。特に人々は富士山の下を走る「夢の超特急」新幹線の出現に感嘆した。競技の上でも日本人はよく頑張った。女子バレー・マラソン・柔道・体操等々に於いて極限まで頑張った。当時大学生だった私は、自分のそれまでの人生を振り返りながら涙を流して熱戦を観た。昭和15年生まれの私は敗戦の廃墟と飢えを知っている。無謀な戦争に命を落とした悲惨な光景も胸に刻んで育った。目の前で展開される熱戦は権力によって強制されたものではない。自らの意志によって全てを懸ける歓喜の躍動であった。

 強烈な印象が残るのは女子バレーである。東洋の魔女・回転レシーブという言葉が踊った。メンバーの一人は「勝利の大きな要因は回転レシーブだった」と語った。大松監督が起き上がりこぼしを見て思いついたという。

 オリンピックの花形といえば陸上であり、中でもマラソンである。東京大会で忘れられないのはアベベと円谷幸吉である。円谷は国立競技場に唯一日の丸を掲げた男であるが「父母上様、幸吉はもう疲れきって走れません。父母様の側で暮らしとうございました」と遺書をのこしての自殺は衝撃だった。彼には婚約者がいたが上官(円谷は自衛官だった)に「こんな大事な時に結婚なんて」と破談にされてしまう。結婚を願っていた相手は別の人と結婚が決まる。その一週間後に頸動脈を切って自決した。生真面目な性格だったという。円谷をここまで追い詰めたのは何だったのか。詳しい事情を私は知らないが、自衛隊・結婚・疲れ切った精神などを要素に考えると非常に複雑な思いがする。平和の祭典に陰を落とす出来事だった。(読者に感謝)