人生意気に感ず「戦後日本初参加のヘルシンキ。ソ連と中共の初参加。人間機関車ザトペック」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「戦後日本初参加のヘルシンキ。ソ連と中共の初参加。人間機関車ザトペック」

◇ロンドンに次ぐ第15回夏期オリンピックは、北欧フィンランドのヘルシンキ大会だった。米ソの冷たい戦争(冷戦)が激しさを加え朝鮮戦争も勃発した。ヘルシンキ大会はこのような世界情勢に揺すられながら行われた。日本はIOC復帰を認められ、12競技に72人の選手を送り込んだ。この大会唯一の金メダルはレスリングの石井庄八が獲得した。多くの記録保持者で「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋は体調不良もあって振るわなかった。NHKのアナウンサーは「日本の皆様、古橋を責めないで下さい」と涙声で訴えた。

 スポーツは文化であり教育の一環である。敗戦により教育も文化もその根底から打ちのめされた日本は未だその建て直しは進んでいなかった。それが当時の国力で、オリンピックの成績はそれを物語っているといえた。

◇オリンピックは各国の政治情勢を反映するが特に前記の冷戦構造はオリンピックに大きな影響を与えることになる。全体主義の下では個人の自由や人権より国家の目的が優先されがちである。そこでオリンピックも国家の目的に利用される。米ソ冷戦の中でオリンピックは自由を宣伝する格好の舞台となるのだ。薬物利用もこの流れの中で生じる。

 この第15回大会ではソ連と中共が初参加しソ連のメダル獲得数は2位であった。恐らく必死でアメリカを追った結果であろう。

 ヘルシンキ大会といえば「人間機関車・ザトペック」に沸き立ったことも私は子どもながらによく覚えている。チェコスロバキアのエミール・ザトペックはマラソンで優勝したばかりでなく5,000m、10,000mもあわせて全て金メダルを獲得した驚異のランナーである。ザトペックの晩年は不幸だった。ザトペックは共産党員として軍人としても高い地位にあったが、「プラハの春」で自由化政策を支持したため軍と共産党から除名され、陸上界からも追放され肉体労働を強いられる迄になった。

 ザトペックには面白いエピソードがある。オーストラリアの英雄ロン・クラークはトラックの中、長距離で19回も世界記録を塗り替えたがオリンピックでは金メダルを獲れなかった。クラークがザトペックを訪ねて帰る時、ザトペックは10,000mの金メダルをプレゼントして「僕は金メダルを4つも持っている。君が一つくらい持っていてもおかしくない」と言ったといわれる。この後世界の大変動及び一体化の中でアジアでのオリンピックになっていく。(読者に感謝)