人生意気に感ず「生活保護制度本来の意義。雲仙・普賢岳から浅間を考える」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「生活保護制度本来の意義。雲仙・普賢岳から浅間を考える」

◇コロナ禍が長期化する中で生活困窮者の悲鳴が聞こえてくるようだ。特に非正規雇用の女性やシングルマザーなど弱い立場の多くの人が窮地に陥っていると言われる。厚労省によると生活保護の申請件数が急増していると言われる。自殺者も少なからず出るなど大きな政治的課題になってきた。緊急事態宣言と合わせるように申請件数が跳ね上がると言われる。これはコロナ禍の惨状と生活の困窮が密接に関わることを物語るものだ。生活保護の制度は「最後の安全網」である。厚労省は「生活保護の申請は国民の権利です」と呼びかけている。生活保護を受けるのは憲法上の権利であるが、政府のこの呼びかけを聞くと私は隔世の感を抱く。昔は「民生委員の世話になるのは恥ずかしい」、「福祉の世話にはなりたくない」等の声がよく聞かれたのである。

 しかし、これらの風潮は正当な権利の行使を妨げる偏見と結びついていた。コロナ禍で職を失った女性などから「偏見をやめて」という声が聞こえてくる。世の中にはこの制度を悪用して受給の要件をいつわって取得する人も少なくないと言われる。今、コロナ禍で問われているのは生活保護の制度が正しく理解され、堂々と給付を受けられるようにすることである。憲法第25条は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定める。生活保護が社会的に正しく定着することは成熟した文化国家の証であると思う。

◇長崎県の雲仙・普賢岳の大災害から3日で30年が経過した。43人が犠牲となった大火砕流の脅威を改めて思う。大火砕流の力は想像を超えるものだった。災害は忘れた頃にやってくるというが正にその通りだった。かつて「長崎大変」と言われた大火砕流は大自然にすればあっという瞬間の経過に過ぎないが、人間はすっかり忘れていたのである。この30年の記念日は現代社会に於ける災害対応の原点を見詰める時である。引き出すべき多くの教訓があったのである。それにつけても私は天明の浅間の大噴火を思い出す。空前の災害であったが、中でも旧鎌原村は酷かった。観音堂に逃れた人々を除いてほとんどが命を失った。吾妻川の対岸まで退避しておれば全員無事だったのにと言われている。群馬は大丈夫という安全神話が依然として支配的であるが、浅間といい赤城山麓の弘仁の大地震といい、大自然の力は測り知れず決して侮ってはならない。(読者に感謝)