「パラグアイ・その二」2005年8月22日(月)
※土日祝日は「議長日記」及び「議員日記」を連載します。上毛新聞社から出版したもので、議員時代の私の動きを海外の視察も含めて振り返ったものです。
正午から群馬県人会創立二十五周年記念式典があった。その前にジャイカの事務所と日本大使館を訪ねた。JICAとは「日本国際協力機構」のことで発展途上国への支援を担当するところ。日本政府は南米一の親日国に多大な援助をしている。JICAはその窓口の一つ。斉藤所長は人づくりが罹っている教育の支援に力を入れていると話していた。事務所のあるフロアは高い階にあり、窓から白い大統領の建物が見える。「ホワイトハウス」である。建物の背後には大きな水面が広がっている。パラグアイ川である。その彼方にうっすらと見える陸地には次の訪問地アルゼンチンだ。日本大使館のガードは極めて厳しい。ペルーの日本公使公邸が占拠された事件以来ガードは一層厳しくなったという。特命全権大使の高橋利弘氏は誠実そうな人で丁重に対応してくれた。私との話の中で、この国の歴史が語られた。スペインから独立した時はブラジル・アルゼンチンと肩を並べる大きな国だったが1865年から始まったブラジル・アルゼンチン・ウルグァイの三国を相手にした戦争で広い国土を失った。この戦争で130万人だった人口は一時30万人にまで激減したという。海がないことは、今でも貿易を進める上で大きな障害になっている。国民は先住民のグアラニー族及び、スペイン人とグアラニー族との混血の人たちから成っている。グアラニーは幼児の時、尻に青い蒙古班があり、日本人と共通の祖先を持つらしい。記念式典はパラグアイの全日系人の拠点ハマナスセンターで行われた。来賓として、JICAの斉藤所長、高橋日本大使も出席。関会長が立派な挨拶をした。この人は群馬県人会会長を十五年もつとめている。後藤出納長が知事のメッセージを伝え、続いて私の挨拶となった。
―私たち県会議員は皆さんの古里と直接つながっています。私は代表して古里を届けにやってきました。こちらに来て皆さんが高く評価されていることを知り感動しました。ここに至るには、筆舌に尽くせぬご苦労と御努力があったと思います。日本は大きく変わりました。平和国家として世界各国と親しく付き合い、日本の富と技術で世界に貢献することは日本が生きる道です。県人会の存在はパラグアイと日本のかけ橋の役目を果たしています。ですから、今後両国の発展のためにますます重要です。そのためにも、二世三世の方々との絆を深めていきたいと思います。(私の挨拶の骨子)
この席で関会長が県から表彰を受けた。セレモニーに続いてパーティーになると、二人の女性が近づいてきた。堀口礼子さんの母と祖母である。二人とも品のいい方々で、日系社会でしっかりしとした基盤をもって生活していると見受けられた。「あの子は気が強いので心配しています。お母さんを大切にするようにくれぐれも言ってください。そのことだけが気がかりです」礼子さんのお母さんの言葉に私は胸があつくなった。領事の古川義一氏からも、この席で、前橋の田口町で一人で暮らす母へと品物を頼まれた。地球の反対側にいても親子の熱い情は伝わる。特別アトラクションが用意されていた。前座に私が「りんごの歌」を歌うと皆懐かしがって合わせて歌ってくれた。アトラクションは、ルシア塩満さんのアルパ演奏である。アルパはスペイン語でハープのことだ。10月19日東京でアルパコンサートを行うという。関実五郎会長に「お元気ですね」と声をかけるとにっこりと笑って興味ある話をしてくれた。パラグアイ、アルゼンチン、ブラジル、ペルーの四カ国で南米ゲートボール協会が出来ていて、一年おきに、いずれかの国で大会が行われるという。今年はパラグアイが当番国で、今月25日から準備にかかるそうだ。町内のゲートボールを見慣れている私には、想像をこえたスケールの大きな話だ。南米ではお年寄りも生き生きと人生を楽しんでいる。式典の後、二つの懇談会が。一つは、パラグアイの日系商工会の方々。いずれも、パラグアイの日系人の力を生かして日本との交流を深めたいというもの。