よみがえる田中正造 死の川に抗して 第28回 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

よみがえる田中正造 死の川に抗して 第28回

鉱毒と戦う戦場には被害民の大衆運動と帝国議会に於ける活動があったが両者は相まって曲折を経ながら進められていった。

私は鉱毒の歴史を振り返る中でこの問題の原点である渡良瀬川の奥地を是非見たいと思うようになった。それは鉱毒発生の本拠たる足尾銅山の跡地である。銅山は閉鎖されても当時を偲ぶものは多いに違いない。私の好奇心がつのる中でその機会は訪れた。

平成三十年五月二十七日、私は足尾を訪ねる「スタディツアー」に参加した。「公害の原点、労働運動の発祥地、田中正造の思想の源流を訪ねる」と案内にはある。私を誘った人は田中正造の曾孫に当たるとされる大川正治氏である。この人は「人権の碑」建設で力を合わせた同志でもあった。私は、求めている田中正造の真実に近づけると直感したのである。

これまで正造の活動のうち渡良瀬川下流地域を主に取り上げてきた。しかし、それでは正造の思想、そして渡良瀬川鉱毒問題の真実を掴むことは出来ない。なぜなら渡良瀬川は源流から発して下流に至っている。鉱毒の源も源流の山にある。下流で起きる様々な問題もその元は源流にあるのだ。

だから源流の実態と歴史を踏まえなければ下流で起きたことも十分に理解できないに違いないと思ったのである。これまでに見た鉱毒に取り組む田中の姿には狂と表現するに値する圧倒的な迫力があった。しかし、その姿の深層に迫るには鉱毒の原点に踏み込まねばならない。それは足尾の山中にある。そこには古河という巨大な企業が立ちはだかっているのだ。古河という鉱山会社の出現より遥か昔からそこには人間の営みがあった。それが松木村であった。谷中村が鉱毒に押し潰されたように、松木村も滅亡した。正造が「真の文明は村を破らず」と嘆いたことが松木村と結びついて私の胸に刺さっていた。そこに迫るにはどうすればよいか。これを模索している最中に今回のツアーの情報が入ったのだ。

 主催者は大学関係者を中心とした人々で、思想的には私が歩んできた保守の立場とは真逆の人々である。しかしそれ故にこそ、通常入手できない事実に触れられるに違いない。

 私の直感は当たった。今、その軌跡を辿ろうと思う。バスは一路足尾銅山に向かった。新緑は高い尾根を覆い大波が迫るようである。バスは流れに沿った道を縫うように走る。高い山の向こうに何があるかを想像すると、のどかな山々が無気味に感じられた。無慈悲な鉱山王と言われた古河市兵衛の砦が刻々と近づきつつあった。

 松木廃村跡に通じるある所に予定通り一人の人物が待受けていた。