人生意気に感ず「満80歳を迎えて楫取素彦を話す。田中正造の鉱毒闘争を重ねる廃娼運動」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「満80歳を迎えて楫取素彦を話す。田中正造の鉱毒闘争を重ねる廃娼運動」

◇10月30日満80歳を迎え多くの方から祝いのメールを頂いた。その中に松陰大学のH教授が居られた。この方には楫取素彦の研究に際し大変お世話になった。2千人を超える学生に吉田松陰を教え今年退職を迎えるという。

 誕生日の翌日早朝5時15分からライン形式によって楫取素彦の講演を行った。ある興味ある団体が主催するもので、ネットで全国の会員に繋がっている。司会は北海道の寺の女性で、どこかのニュースキャスターのような美人で慣れた様子であった。

◇楫取は群馬の初代県令で教育と新産業、つまり生糸で近代群馬の基礎を築いた。その業績を知るには時代背景と生い立ちを知る必要があると述べ、吉田松陰・修身説約・新井良一郎・廃娼運動などに触れた。松陰は安政の大獄に於いて29歳で世を去ったがその直前、義兄楫取に「至誠にして動かざるは未だ有らざるなり」を贈った。世は幕末の内憂外患の時。外患を象徴するようにペリーの黒船が日本を脅かした。単身、巨船に乗り込みアメリカに行きたいと迫った松陰の姿は、言葉は通じなくともアメリカ人の心を打った。楫取は新井良一郎のアメリカ行きを援助した。青年実業家新井はアメリカに渡り生糸の直接貿易の道を開いた人。楫取の妻寿子は出発に際し松陰の形見の短刀を渡し「これにはアメリカに渡れなかった兄の魂が込められています」と励ました。新井はこの短刀と松陰の「至誠」の言葉を胸に秘めてビジネスに於いてアメリカ人の厚い信頼を得た。この人の孫・春は元駐日大使ライシャワー夫人である。

◇楫取は「廃娼」に於いて金字塔を打ち立てた。新島襄の弟子湯浅治郎が中心になって群馬県議会でまとめた廃娼の建議を楫取は6年の猶予期間をおいて実行することを決め群馬を去った。これは曲折を経て実現され群馬は日本で最初の廃娼県となった。これは人権史上金字塔の名に値するものであり道徳教育の原点の意味を持った。

この朝の講演は終了後に質問が寄せられるシステムであるが道徳教育と関連させて質問がなされた。県庁裏には立派な巨石に楫取の業績が刻まれているが廃娼については一片の言葉もない。県当局を含めた人々の人権に関する関心の薄さを物語る。現在毎日新聞に「死の川に抗して・田中正造」を連載中であるが足尾の鉱毒と戦った田中の姿は人権を実現するための必死の努力を示している。私は廃娼に尽くした楫取や湯浅治郎と重ねて思いを深くする。(読者に感謝)