人生意気に感ず「岩田亀作さんとニューギニアを語る。10キロ完走を誓う」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「岩田亀作さんとニューギニアを語る。10キロ完走を誓う」

◇11月1日(金)岩田亀作さんにお会いした。アポイントをとっておいたのである。あと二カ月ばかりで101歳となる人はネクタイを締め毅然としておられた。耳が遠くなった他は立派で、燃え尽きる人生の炎などは感じさせない。人間とはかくなるものかと感動した。97歳まで車を運転し違反したことはない。この人を支えるものはニューギニアの極限の体験に違いない。この日、ダンピール海峡・サラワケット越え・野戦病院などを語る時激しい情熱を感じさせた。あの戦争が遠ざかり、地獄の体験を明瞭な頭脳で語れる人は極めて少なくなった。「戦友が皆いなくなりました」、「亀作さん、私も戦友ですよ」、「そうです、中村さんは最後の戦友です。ははは」このような会話を交わした。長いことニューギニアを語り継ぐ運動を共にしてきた私にとって、亀作さんは戦友の存在であった。79歳の誕生日を二日前に迎え、二日後に10キロのマラソンに挑戦する私は期することがあってこの日亀作さんを訪ねた。

◇2001年(平成13)10月、私は副議長として慰霊巡拝でニューギニアの戦跡を巡った。前年9月にニューヨークの同時多発テロが発生したことで世界情勢は未だ騒然としていた。ニューギニアの戦跡に立って戦争と平和を考えるには良い機会であった。ラバウルの印象は強烈であった。ゼロ戦の残骸が土の中に突き刺さっていた。かつての作戦本部は半ば土に埋もれている。強者どもの夢の跡であった。

 ダンピール海峡はラバウル島と本島との間にある。ラバウルからの移動の時悲劇は起きた。制空権を奪われた日本の船は丸裸で、アメリカ空軍の餌食となった。沈没する船の中は阿鼻叫喚であった。岩田さんは死体の山をかき分けて海に飛び込んだ、必死で泳いで振り返ると船は船首を上に向け大きな渦を巻いて沈んで行った。流れている材木にすがり、2・3時間銃弾の雨に晒されながら波間を漂った。急降下した機上の米兵の顔がはっきり見えたと岩田さんは語った。

◇この日、私は岩田さんに謝罪した。かつて「百歳まで生きたら良い、弔辞を読むから頑張って下さい」と励ましたのである。岩田さんは「あと10年頑張る」と笑いながら言った。マラソンのことが話題になったので、「ダンピールの亀作さんの姿を想像して走ります」と誓った。毎日新聞連載の「田中正造―死の川を抗して」は9日(土)である。7日中国へ出発する。(読者に感謝)