小説「死の川を越えて」第161話
電車に乗れないとなれば、この男の言う通りにする他はなかった。
「嬬恋駅に迎えが来ることになっています。そこまでお願いします」
遥かな山の路を思えば胡散臭い男の申し出を断ることは出来なかった。
「こっちは女だから、馬の方も気を付けて下さい」
「へっへい。それはもう。綺麗なお嬢様で。馬の方も臭いで十分承知でごぜえやす」
又八は品の悪い笑いを浮かべて言った。途中の茶屋でも言われる通りの金を払い、嬬恋駅に着くと、二頭の馬賃を払った。
「ここに、宿の名が書いてありやす。特別奉仕でやす。是非ここに宜しく頼みます。へっへ」
又八はそう言って去って行った。
嬬恋駅では、人々の歓声が上がった。
「やあ」
「おう」
同時に出た驚きの声であった。
「万場さん」
「鄭東順さん」
二人は固く抱き合っている。
「明霞さん」
「こずえさん」
二人の女性も抱き合っている。
「こずえでございます」
こずえは鄭の前に進み出て言った。万感の思いが胸に迫っていた。
「おお、お品さんの」
鄭は思わずそう言ってこずえの手を握った。傍らに居た正助が進み出て鄭の前に立った。
「韓国では大変助けられました。こうしてここに居られるのも皆さんのお陰です」
「おお、正助君、会いたかったぞ」
それぞれの胸に限りなく熱い思いが込み上げていた。驚いたことに嬬恋駅には万場老人が用意した馬が引く荷車が待っていた。ふもとの里の枯れ木屋敷に話して用意させたもので、粗末な筵が敷かれており、人々は腰を落とした。狭い空間が人々の親密さを一層濃くしていた。
※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。