人生意気に感ず「マラソンの番号届く。名古屋の朝を走る。圓周寺の無縁墓」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「マラソンの番号届く。名古屋の朝を走る。圓周寺の無縁墓」

22日、28回ぐんまマラソンのナンバーカードが届けられた。男子10キロの部で、11444番。友人が「イイヨ、ヨシだね」と言った。いよいよだなと、胸が高鳴る思いである。11月3日、潮流のような群集の一点となって、秋の空の下を走る。直前の10月30日は誕生日で、私は満78歳を迎える。振り返れば人生は長距離マラソンである。ここまで来たという感慨が湧く。78歳で10キロを走れることを天に感謝しなければならない。

◇21日の早朝、名古屋市東別院の周辺を走った。真宗大谷派の本堂である敷地は広い。聞けばここにはかつて古渡城があって信長が桶狭間に向けて進軍した地であるという。今川義元の雲のような大軍を破った狂気の軍団の光景を想像しながら私は走った。

 この日私は名鉄名古屋線で甚目寺(じもくじ)町に向かった。目的はこの町にある浄土真宗の寺圓周寺である。入り組んだ路地の奥に古刹はあった。私の小説の中の小河原泉のモデルに小笠原登の実家である。前日の講演で司会をしたこの寺の住職小笠原英司氏は不在で、奥様とその母が待受けていた。親子の風貌は小笠原登の血を引くことを物語るように似ている。英司氏は婿に入られて寺を継いでいると、前日説明を受けていた。

 境内には多くの墓が並び、その一角に目指す無縁墓はあった。正助、さや、正太郎の一家が詣でた墓である。挿絵に描いた通りの姿が静かに佇んでいた。私は親娘と並んで墓を背にして写真を撮った。本堂の奥に案内されると、そこには古い畳の部屋がいくつかあり、その一つで小笠原登は京大を退官後、秘かに訪れる患者を診察したという。「この部屋です」と夫人は説明した。薄暗い部屋に横たわるハンセン病の患者とそれを細かく診察する医師。鬼気迫る緊迫の場面を想像した。当時特効薬があったが、厳しい隔離政策が続いており、特効薬が使えるのは収容された患者のみであった。小笠原登は自費で特効薬を購入して患者に射った。

 今回の名古屋講演でシーボルト事件と小笠原登との関係を知って驚いた。登の祖父は有名な医師でもあり、登は祖父の影響を強く受けた。シーボルト事件が起きたとき、この祖父は幕府に追われる関係者の医師を寺にかくまい、この時進んだ医術を学んだと言われる。それをハンセン病の治療に役立てたということを私は知った。高野長英につながる蘭学に思いを馳せた。(読者に感謝)