人生意気に感ず「名古屋の講演の成果。司会は小笠原住職だった」
◇20日(土)の名古屋講演は予想以上の成功であった。主催は真宗大谷派東別院。東別院会館50周年記念講座の一つ。私の話の中心は、権力に抗してハンセン病患者に寄添って生きた小笠原登をモデルにした小河原泉である。講演を終えて、東別院の人たちと話す中で、この大谷派と小笠原登が格別の関係にあって、現在も別院がこの人物に並々ならぬ関心を抱いていることを知った。偶然の要素も重なって私の講演は成果を収めたといえる。
講演の司会者は圓周寺住職小笠原英司氏。このことも、この講演が小笠原登といかに関係が深いかを物語る。圓周寺は小笠原登の実家なのだ。私は講演で小説の中の小河原泉のモデルは小笠原登であることを自信をもって語ることができた。
お腹に小さな命を宿したさやが京都大学を訪ね小河原泉に接し、その語る話と人柄に打たれて子を産む決心を固め、そこで生を受けた正太郎が活躍する下りを会場の人々は身を乗り出すようにして聴いてくれた。
小説の重要なポイントに悪魔の監獄「重監房」がある。これは国の隔離政策の象徴であった。ここに入れられた人々の救済に軍兵衛たちは苦心したが、カツオブシの差し入れを提案したのは正太郎であった。
◇講演後の懇親会で、名古屋の真宗大谷派と小笠原登の意外な関係につき話を聞き、また貴重な資料を頂いた。
かつて名古屋にはハンセン病の患者が多かったという。そして、この地の大谷派は国の隔離政策に積極的に協力した。良かれと信じて行ったことであった。一方に真宗大谷派に属しながら隔離政策に頑強に反対した小笠原登がいる。この関係は一体どうなっているのか。時代が大きく変化し、司法は国の隔離政策の誤りを認めた。真宗大谷派も大いに反省することになった。この情況の中で、大谷派の人々は小笠原登の存在を改めて認識し評価するようになった。私は話に耳を傾け、頂いた資料「時代に抗した念仏者」を読んでこのことを確信した。資料によれば小笠原登は、京都大学退官後、他の病院に勤めながら土日には実家の圓周寺に戻り、秘かに患者の治療に当たった。県はこれを察知していたという。見つかれば患者は隔離されてしまう。小笠原は「帰りは気を付けなさい」と注意したという。この寺に小笠原登が眠る無縁墓がある。小説の中でさや及び正太郎がこの墓を詣る場面が語られる。(読者に感謝)