人生意気に感ず「100歳となった亀作さん。広島の平和宣言の意味」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「100歳となった亀作さん。広島の平和宣言の意味」

◇ニューギニアの生き残り岩田亀作さんを訪ねた。酷暑の中でどうしておられるか気になっていた。体は更に小さくなったが元気だった。「今年は市長から百歳のお祝いを受けました」。「生きて帰れぬニューギニア」と言われた地獄の戦場だった。「ダンピール海峡、サラワケットとよく生きぬきました」岩田さんはしみじみと振り返った。「中村先生に百歳まで生きろと言われ頑張りました。戦友は皆あの世へ行きました。多くの弔辞を読みました。私の弔辞は先生に頼みますよ」。私は黙って頷いた。日頃からそう思っているのである。

 実は、この日岩田さんを訪ねたのには一つの目的があった。19日の「ふるさと塾」で8月15日の玉音放送をどう受け止めたかを話して欲しかったのだ。岩田さんは承知してくれた。会場の福祉会館は岩田家から近い。同居している娘さんがご一緒してくれることになった。岩田さんは、「何を話そうか」と私の目の前で遠い昔を振り返った。岩田さんが語ることは意外だった。昭和20年8月15日は未だニューギニアであった。「確か19日だったと思います。詔書のコピーを隊長が読みました」と語る。その時の情況を「ふるさと塾」で話すことになった。私は、岩田さんのふるさと塾登場を準備しようと決意した。恐らく百歳の岩田さんが人の前で終戦を語るのは最後かもしれない。一般の人の参加も歓迎である。

◇広島市長の平和宣言を聞き、原爆の残酷さと今日の世界の行方を思った。次のような言葉が胸にささった。先ず惨状である。「目も眩む一瞬の閃光、人が焦げる臭気の中、赤い肉をむき出しにして亡霊のごとくさまよう人々」。次いで世界の情勢に及んだ。「今、世界では自国第一主義が台頭している」、「私たち市民社会は、朝鮮半島の緊張緩和が今後も対話によって平和裏に進むことを心から希望しています」

 原爆の地獄は広島と長崎をもって最初で最後にしなければならない。73年が過ぎ、恐ろしい人類史の出来事が、被爆者の減少とともに遠ざかっていく。それを防ぐことが人類の平和のために今求められている。

 平和式典で小学6年生の2人の子ども代表は訴えた。「73年前の事実を、被爆者の思いを、私たちが学んで心に感じたことを伝える伝承者になります。この子どもたちの思いを全国の子どもが共有しなければならない。それは教育界の責務である。(読者に感謝)