人生意気に感ず「パキスタン大使館を訪ねる。マララを招く交渉。あわやの逆転負け」
◇3日、東京はうだるような暑さだった。前日群大病院を退院した体に手術の違和感はない。早朝、運動靴で大地を踏んだ。「ああ、また走ることが出来る」大地から足に伝わる感触がこう語っている。医師は無理をしなければと、運動の再開を許していた。走ることは私にとって生きることである。コース上の建物や木々が私の生還を喜んで迎えているようであった。
前橋駅を7時49分、日本アカデミーの清水理事長と出発し、高崎から新幹線で国会、そしてパキスタン大使館へ。第二議院会館で上野宏史氏と改めてマララ氏招聘の件を整理し確認。上野氏は国際派でパキスタン大使と面識が厚い。そして、私のふるさと塾の塾生でもある。私は用意した48枚に及ぶ「へいわの講義」のレジュメを取り出した。その3枚目がマララだった。赤いスカーフをまとったマララが静かに微笑んでいる。女性の人権を訴えて銃撃され、それでも怯まなかった。パキスタンの少女の命がけの生き方から平和の尊さ及び平和を守るにはどうしたらよいかを学ぶという、この時の講義は人々の感動を読んだ。これがマララを前橋に招く企画の発端となった。
私たちは南麻布のパキスタン大使館に向かった。厳重なガードに包まれた邸内に入りアサド・マジード・カーンパキスタン大使と会った。大使は笑顔で私たちを迎え、流暢な日本語を操って母国とマララを語った。私は、日本と比べて過酷な環境の異教の地の光景を想像して胸を熱くした。
私がマララを招く意義を訴えるのに対し、カーン大使は最大限努力すると語りながら一つの重要なアドバイスを示した。それは前橋市と広島市が連携してマララ来日で動くということであった。私たちの企画ではマララさんをその前橋訪問後に広島へ案内することを描いていたのである。早速動こうと理事長と話し合った。
◇自宅に帰って、ワールドカップのベルギー戦を観た。途中からテレビのスイッチを入れると2対0で勝っているではないか。信じられない。世界の最強豪に対して2点のリード。このままいけるか。いって欲しい。祈る思いである。甘くはなかった。大男たちの凄まじい反撃が始まり、あっという間に逆転され敗けた。勝敗は戦の常。日本は敗戦の中で多くのことを学んだに違いない。日本のサッカーの新しい夜明けである。(読者に感謝)