人生意気に感ず「議員を辞し、直訴に。若者は興奮して立ち上がった」
◇今日も田中正造を書く。田中正造とのいわば遭遇を経験し、佐野市などの田中の施設を巡り関連した資料を読み私の胸は躍る。ある施設のボランティア説明員が田中のことを「奇人・変人と呼ぶ人がいます」と語り、田中も「馬鹿・狂人と言われる」と自身のことを書いている。これらの表現が意味することは深い。
川俣事件の年(明治33年)に前橋地裁でアクビ事件を起こした。また翌年、田中は鉱毒事件に関して最後の質問を果たし、この年10月23日衆議院議員を辞職した。61歳であった。辞職に追い込まれた訳ではない。何を起こして辞職を要求されても議席にしがみ付く政治家が多いのが現実であることを考えると、これは大変なことであった。田中は秘かに期することがあって決断したのだ。事情が分からない人は、この行動を指して「奇人・変人・狂人」と表現したことだろう。
川俣事件、田中の国会における鉱毒の追及で世論は高まりつつあった。この年10月30日、田中の衆院辞職から一週間後、古河市兵衛夫人が入水自殺した。
この年12月10日、日本中を震撼させることが起きた。田中が明治天皇に直訴したのである。明治天皇が国会の開会式に臨んだその帰りの馬車を目指し「お願いがございます」と飛び出したのだ。荒畑寒村はその著「谷中村滅亡史」の中でこの場面を描く。「紫電飛び白刃ひらめきて兵馬動く」と。馬に乗った護衛の兵が刀を振りかぶったのである。田中は転び、兵も落馬し、田中は目的を果たせず取り押さえられた。
田中はこの行動に出るために衆議員を辞職したのだ。議員の職にあって直訴をすれば、政治的目的のためと誤解される。真に被害住民のために死を覚悟した上での決行であった。
私は、田中の最後の議会演説を読んだが、死を覚悟して演説したのかと知ってこの演説を振り返ると、田中の真情の並々ならぬことが伝わってくる。
直訴文は田中の依頼を受けて幸徳秋水が書いた。田中はその文面に修正を加え、その箇所に印を押した。田中は直訴は失敗と思ったが、その反響は凄かった。新聞は号外を出し、直訴の全文を載せ、人々は争って読んだ。特に若者たちの心を動かした。啄木は感動して歌を詠み、東大生を中心にした学生の視察が行われた。その指導者の一人に内村鑑三がいた。(読者に感謝)