人生意気に感ず「田中正造の遺跡を巡る。旧宅・雲竜寺・惣宗寺」 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

人生意気に感ず「田中正造の遺跡を巡る。旧宅・雲竜寺・惣宗寺」

◇連休のある日、田中正造の遺跡を訪ねた。田中正造旧宅、堀米地蔵堂、雲竜寺、惣宗寺である。それぞれ、田中正造の実態を知る点と線である。それを全体の姿に作り上げるのに私の想像力も重要である。

◇旧宅を訪ねたのは初めてではない。回を重ねる度に新しい収穫がある。この日は農教倶楽部と志賀直哉について理解を深めた。「農協」ではなく「農教」であることが重要なのだ。正造は死の直前、小中村の将来に農業と教育が不可欠と考え家屋敷を寄贈して農教倶楽部を創設した。政治家田中正造は同時に教育者でもあったのだ。

 旧宅母屋の壁に志賀直哉のことが貼られていた。志賀直哉も田中の直訴に衝撃を受けた若者の一人だった。鉱毒地視察に関し反対する父親と激しく口論した記事である。

◇堀米地蔵堂は旧宅の近く、同じ県道沿いにあった。田中の遺跡として注目する人は少ないだろう。小さな社と榎の古木があるだけだ。若い頃、田中は獄から出された後に振り返って、ここで子どもを教えていたことが人生で最も楽しかったと語った。熱血先生田中と彼を囲む子ども達の姿が甦るようである。私は自分の中村塾を重ねて懐かしく思った。

◇雲竜寺では予め連絡しておいたので、病身の住職が会ってくれた。歩けない程弱っておられるが田中を語る時の視線に力があった。

 この寺はかつて鉱毒反対運動の拠点であり、その事務所となったところである。高い堤の向こうを渡良瀬川が流れている。当時、遥かに広がる流れの中に何千という住民が集結した。

 今、視界を遮られていることで私はかえって自分の想像を逞しくさせた。伊東正巳住職はこの寺で田中の仮葬儀が行われ、本葬は惣宗寺で行われたことを語った。勧められて墓と救現堂を見た。墓を改修する時、中にお骨を確認したという。救現堂は田中が死の床で「現在を救いたまえ」と叫んだことに由来する。住職は私に田中正造の写真を寄贈された。

◇雲竜寺から2キロ程の所に惣宗寺があった。田中の本葬が行われた寺である。多くの参拝者が列をなしているが、この人たちは田中の大きな墓石には目もくれない。墓石の前に二つの木標がたつ。一つには俊徳院殿義巌徹玄大居士と戒名が書かれ、他には「夕川に葦は枯れたり血にまとう民の叫びのなど悲しきや」と。啄木の歌である。直訴に感激して詠んだものである。(読者に感謝)