小説「死の川を越えて」 第75話
「お前たちは、以前に県議会に傍聴に行ったから、県議会とはどういうところか大体の感じは分かっておろう。あの時、森山さんにはお前たちの傍聴について、了解を得ていたが、森山さんがお前たちに会うことはなかったわけじゃ」
万場老人はこずえを見ながら笑った。
「あの時は、木檜先生の凄さに驚くばかりでしたわ」
こずえがさやを見て言った。
「そうね。私は、あそこに居ることがしかられはしないかと恐かったの。戦地にいる正さんのことを思ってじっと耐えていたわ」
さやが応えた。二人は顔を見合わせて当時を振り返った。
「そうそう、正太郎君も連れて来てほしい」
「え、正太には何も分かりませんよ、先生」
さやが驚いて言う。
「大切な役割があるのじゃ。心配はいらん」
老人はすかさず言った。
その日が決まった時、老人は急いで皆を再び集め、森山抱月という県会議員について改めて語った。佐波郡出身で商家を継ぎ、蚕種の製造も行っている。上毛民報という新聞を発刊し、廃娼(はいしょう)で正義の論陳を張った。このような経歴を説明してから、万場老人は言った。
「廃娼運動と教育に貢献した人物で、激しい気性の正義漢じゃ。孤児、盲唖者にも理解がある。この男がこの集落に関心を示すのは当然じゃ」
「廃娼運動とは何ですか、先生」
正助が尋ねた。
「うむ、お前たちは知らないであろうな。廃娼とは、娼婦の制度を廃止することじゃ。娼婦とは、まあ、女郎のこと。貧しさ故に体を売る女が全国に多数いて、奴隷のようだという非難が集まっていた。そういう女は群馬にも多くいた。明治の県議会はこれを廃止しようと決議した。その中心となった県会議員が湯沢仁悟であった」
「ああ、新島襄の弟子のキリスト教徒ですね」
正助が口を挟んだ。
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