小説「死の川を越えて」 第60話
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赤いチョゴリの女
正助の身は、韓国のハンセンの組織に受け継がれた。人々の交わす言葉は少ない。全ては心得ているといった様子でことは運んだ。韓国の船が動き出した。しばらく沈黙が続いた。日本に帰れる実感に正助の胸は躍った。朝日を受けて光る海が日本に通じていると思うと、さやと未だ見ぬ正太郎の姿が想像され、正助は助かった喜びにひたった。
漁船を装った小船は韓国を目指して南下した。暫くした時、黙々と背を丸くして作業をしていた男が振り向いて言った。
「お久しぶりです」
「あっ、あなたはあの時の」
正助は思わず叫んでいた。そのかさぶたの顔は紛れもなく兵舎の前で正助に紙片を渡した李であった。
「あの紙で助けられました。本当に有難うございました」
「何の。頭の力でございます。韓国は間近です。上陸したら2日程かけて京城に向かいます。安心して下せえ。韓国は日本ですから。ただね、警察とか何かにひっかかるとややこしくなるから、頭のところまでは、我々でそっとお連れ致せと言われています。任せて下せえ」
「何分、宜しくお願いします。あなたたちの力は十分に分かっていますから安心です」
正助がこう言うと李は嬉しそうに頷いた。正助は、ウラジオストクのハンセン病の谷のこと、そして先程の地底の洞窟のことを思い出していた。あの海流が渦巻く分岐点を想像すると身が竦んだ。あの岸壁の目印こそ、闇の組織の力を示すものだと思えた。
「危ない所を通れてよかったですね」
李が笑顔を向けた。
「生きた心地がしませんでした」
「金と朴なので安心していました。実は以前大変なことがありました」
「あの洞窟の中でですか」
「そうです。日本軍に頼まれて3人の兵士を脱出させようとしたのですが、入ったまま出て来なかった。分かれる所を間違えたのでしょう」
※毎週土・日は、上毛新聞連載中の私の小説「死の川を越えて」を掲載しています。