小説「死の川を越えて」 第53話
「上着を」
正助は手を上げて探るように動かした。
「これか」
女は、軍服を引き寄せて正助の手に近づけた。正助はそれをしきりにまさぐっていたが、やがて、襟元のあたりから何かを摘み出した。
「これを見て下さい」
人々の好奇の目が一点に集中した。油紙に包まれた一片の紙。一目見て男は叫んだ。
「あっ。やはりお前は」
驚く声。興奮した朝鮮語が飛び交っている。
「どこで、これを」
一人が鋭く聞いた。正助は、京城の出来事、日本のハンセンの集落のことを話した。
「我々の暗号だ。少し前に日本の兵隊で同病の者が来るということが伝わっていた。お前の裸を見て、もしやと思ったが、今、はっきり分かったぞ。ここに書いてあることは、何をおいても助けよということ、又、京城の頭に連絡せよということだ」
「これを飲め」
女が何やら液体を正助の口に流し込んだ。
「俺たちの薬だ」
男の声が聞こえた。人々の声が小さくなっていく。正助は眠りに落ちていった。
どれほど時間が経ったであろうか。正助は腰のあたりの痛みで目を醒ました。〈助かったのだ〉。正助は朦朧とする意識の底で思った。まだ体が痛む、頭が痺れている。戸の隙間から光が差し込んでいる。目が慣れると回りの壁が見えた。
「あっ」
正助は思わず声を出した。動物の首が掛けられている。その中の一つで動物と見えたのは紛れもなく人間の首に違いない。目を剝き口を開き髪を長く垂らしている。〈本物か〉。正助は目を凝らした。その時、かたりと音がして戸が開いた。顔を出したのは昨夜の女であった。
※毎週火・木は、上毛新聞連載中の私の小説「死の川を越えて」を掲載しています。