小説「死の川を越えて」 第42話 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

小説「死の川を越えて」 第42話

第二章 大陸の嵐

 

  1. 抗日

     

 正助の隊は中国の青島に向かったが、大正7年(1918)、韓国に移動した。この時期、中国でも韓国でも抗日運動が盛んになっていた。正助たちが急きょ韓国に回されたのは、民衆運動に備えるためであった。中国では日本が不当な二十一カ条の要求を突き付けたことで、抗日運動が一層激しくなった。そして、ベルサイユ条約でこの要求を世界が承認したことで、大正8年(1919)5月4日、北京大学の学生を中心とした若者が一斉に立ち上がり、抗日の嵐は中国全土に広がった。五・四運動である。

この動きは韓国にも大きな影響を与え、日本の支配に抵抗する三・一運動が起った。韓国は1910年(明治43年)以来、日本に併合されていたが、反日、そして独立を求める動きは根強くあった。これに影響を与えたのが隣国中国の民族運動や革命であり、ウィルソン米大統領の「民族自決」のメッセージだった。大正8年3月、元韓国国王・李太王の国葬に際し、日本式で行うという日本政府の決定に対し、学生たちは激しく反発した。独立宣言書を朗読し、「大韓独立万歳」を叫んでデモ行進し、一般市民も合流した。この運動は各地に広がり、警察や官公署が襲われる程になった。そこで原内閣は兵を増派することになった。各地から集まった日本兵の中に正助の姿があった。韓国は日本の一部とはいえ、京城での兵士の外出や単独行動は厳しく規制されていた。それでも4月になると、京城の街はいく分静けさを取り戻していた。

 ある日、正助が兵舎を出た時、突然物陰から歩み出た男がいた。一見して、異様な風貌である。正助は、はっとして立ち竦んだ。紛れもない、ハンセン病の顔であった。

「旦那、ちょっとよろしいですか」

男は意外にも日本語で話しかけた。正助は、その場を走り去ろうとしたが、男に敵意が感じられず、何か惹かれるものがあって足を止めた。

「下村正助さんでございますね」

「えっ」

正助は思わず叫んでいた。

「どうして私のことを」

「はい、同病の兄が群馬の草津で、万場という人に助けられました。あなた様が京城へこられることは、草津の兄が、その人に頼まれて知らせてきたのです。困った時はお助けしろと。何かの時は此処へ。私は李と申します」

 

 

※毎週火・木は、上毛新聞連載中の私の小説「死の川を越えて」を掲載しています。