小説「死の川を越えて」 第31話
「大変なことが起きた」
正助はぽつりと言った。
「何なのよ、正さん。話してよ」
さやは泣き出さんばかりの声である。重い沈黙が流れた後で正助は口を開いた。
「召集令状が来た。お国から。本当なんだ」
「えっ。戦争に行くの」
さやは叫んだ。
「まだ、どこへ行くのか分からない。どうなることか分からない。先日、万場老人が世界の戦争のことを話していた。中国のことも話していた。あのことと関係あるのだろうか」
正助は、きっと唇を噛んでさやを見詰めた。
言葉を出せない重い空気が2人を包んでいた。2人の運命はどうなるのか。2人には分からない。
やがてさやが言った。
「病気があっても行くの」
「ハンセンと登録されている分けではない。それに俺は軽い。だから20歳の徴兵検査でも合格した。その時、俺は国から一人前だと認められたことを喜んだ。しかし、まさか天皇陛下から召集令状が来るとは夢にも思わなかった」
「正さんはどうなるの。私たちはどうなるの」
「分からないんだ、さやちゃん。何も分からない。俺は一晩考えた。さやちゃん、聞いてくれ。俺は思いついた。国のために尽くさなければならない。お国のために働ける機会が与えられたんだ。喜ばなくちゃならないんだよ」
「そんな。私はいや。お国のためなんて分からない。正さんと離れたくないの」
さやは、涙の目で正助を見詰め、正助の膝に両手を置いて肩を震わせている。
「さやちゃん。まだ永久に離れると決まったわけじゃない。俺は泣かないぞ。人間には定めというものがあるんだ。どうにもならないことなんだって。それを泣いても仕方ないじゃないか。さやちゃん、俺に力を貸しておくれ。離れても心は一つじゃないか。体も一つじゃないか。さやちゃんが励ましてくれれば俺は生きられる」
※毎週火・木は、上毛新聞連載中の私の小説「死の川を越えて」を掲載しています。