小説「死の川を越えて」 第29話 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

小説「死の川を越えて」 第29話

さやは、老人の話を一語も聞き漏らさじと真剣に耳を傾けていた。

「今日は、ここまでじゃな。わしも今日は命の火を燃やしたわい。愉快なひとときだった。そうじゃ、一言言っておきたいことがある。お前ら、いま世界大戦のただ中にあるのを知っているか。幸い日本は戦場になっていないから静かだ。イギリスがドイツと戦っている。日本は日英同盟を結んでいるから、イギリスを助けるということを理由に、ドイツに宣戦を布告した。そして、中国におけるドイツの権益を奪いにかかっている。そこでじゃ。中国の反日感情に火がついている。わしは日本の将来が心配じゃ。日本は、日英同盟によって中国で漁夫の利を得ようとしている。軍国主義は我々患者の敵だということをお前たち、胸にとどめておくがいい」

 さやは、こずえと知り合いになれたことを改めて喜んだ。こずえは、力になると約束した。

 

別れ

 

 正助とさやは、竹内館の主人の計らいで、離れの一室を与えられて生活することになった。人間は心の生き物である。心に何が宿るかにより人は狂人にもなり革命家にもなる。追い詰められた男女の心に共通の愛が芽生えた時、それは強い生きる力となって2人を甦らせる。絶望の渕に立っていた正助とさやの瞳には、今、燃えるものがあった。幸い、2人はハンセン病の患者とはいえ軽症といえた。最近の2人を見ると、その生き生きとした動きは健常者と変わらなかった。ただ、2人は日々、重症者の姿を見るにつけ、あれが自分たちの将来の姿かと怯えるのであった。

 ある日、正助は、コンウォール・リー女史が建てた聖バルナバ病院を訪ねた。そこにはリー女史が話していた服部けさというキリスト教徒の女医がいた。服部けさは福島県の生まれで、東京女子医大で学び、大正6年、リー女史の招きを受け、33歳で聖バルナバ医院の初代医師になった人である、正助が訪ねたのは、医師就任後間もない時であった。

 

※毎週火・木は、上毛新聞連載中の私の小説「死の川を越えて」を掲載しています。