小説「死の川を越えて」  3 | 中村紀雄オフィシャルブログ 「元 県会議員日記・人生フル回転」Powered by Ameba

小説「死の川を越えて」  3

万場老人はいろりにくべる枝を折った。パチンという音が強い怒りを表すように正助の胸に響いた。

「いよいよ湯の川地区への移転が決まった時、患者たちは生い茂るクマザサを刈り、荒地を切り開いて新しい村づくりに取り組んだのじゃ。大海に乗り出すような不安とともに、自分たちの別天地をつくるという夢があったに違いない」

 万場軍兵衛はしばらく話した後で言葉を切って言った。

「正助とやら、今晩はこの位にしよう。こずえが話をしたいようじゃ。次は仲間を連れて来るがよい。その時本論に入ろう」

正助は丁寧にお辞儀をし、こずえに会釈をして去って行った。

次の機会は間もなくやってきた。湯川の縁に茂るササの葉には早くも白い雪が積もっていた。正助は2人の仲間を伴っていた。

「よく来たな。まあ座るがよい」

万場老人は3人をいろりに招いた。

「ご老人、先日は有り難うございました。俺は胸が熱くなって、この者たちに話しました。権太と正男といいます。それから、お願いですが、これからは先生と呼ばせてください」

「は、は。老いぼれだから老人で十分じゃが、勝手にせい。じゃが、先生とあっては、いい加減な話はできぬわい」

4人の笑い声が炉に立ち昇る煙の中に響いた。正助が口を開いた。

「先生は先日、湯の川地区には世界のどこにもない、ハンセン病の光があると言いました。俺たちには信じられないことです。そんなすごいものがここにあるなんて。まず、それを教えてくれませんか」

「おお、確かに申したぞ。若いお前と熱い話ができて、久しぶりに忘れていた若い血が燃えたのじゃ。気持ちが高ぶっておったが、間違いなくハンセン病にとっての光だ。今日は、そのことから話すことに致そう。ちと難しい。根性を据えて聞くがよい」

万場老人は、こう言って、飲み止しの茶を一気に飲み、3人の顔をじっと見詰めた。

「湯の川地区の開村は先日話したように明治20年。実は、開村といってもそれまでにいろいろあった。温泉街、つまり本村と分離されこの地に追い払われるようにして始まった新しい村じゃ。開村といっても、この年、この地に移った患者の家はわずか4戸であった。わしが言いたい重要なことは、ここからハンセン病患者の手で一歩一歩、新しい村の形をつくっていった事実じゃ。翌年には、患者が経営する患者専門の宿屋、小田屋、鳴風館などが移り、30人余りの小集落となった」

「小田屋は俺んとこだ」

権太が叫んだ。すると、すかさず正男が言った。

「鳴風館は俺が働いている」

万場老人は、それを目で受け止めながら続ける。

「この辺りには幸いの湯があったが、集落の人々はこれを殿様の湯に改名し、また、頼朝神社を集落内に建て氏神とした。殿様の湯は源頼朝が入ったと伝えられ、頼朝神社は頼朝を祭った祠に由来する。頼朝は、公家に代わる力強い武士の社会を築いた改革者じゃ。湯の川の人々は、改革者としての頼朝に、苦難に立ち向かう自分たちの姿を重ねたに違いない。これらの努力は、立派な自分たちのとりでを築きたいという人々の覚悟を示すもの。そして、集落の人々の心を一つにするために大きな意味を持ったに違いない。湯の川地区をつくった人々には開拓者の根性と使命感があったと思う。わしは、かのアメリカのピルグリム・ファーザーズを思い出す」

「先生、何ですか、そのピルグリム何とかとは」

正助は不思議そうに尋ねた。

「うむ。日本では江戸時代の初め頃に当たる。イギリスで宗教的迫害に遭った人々が北アメリカに逃れて開拓の一歩をしるし、ニューイングランド建設の基礎となった。ピルグリムとは巡礼のことじゃ。話はそれたが、湯の川地区の人たちは、このようにして、自分たちの手でこの地を治めることを進めた。戸長を選び、税金を納めるようになった。このことがどんなに素晴らしいことか、お前らはにわかには分かるまい」

 

 

 

※毎週火・水は、私の小説「死の川を越えて」を連載します。

しばらくの間、通常のブログは月・水・金の更新となります。連載中の小説の執筆に時間を使わなければという危機感に迫られて決断しました。今後ともどうぞよろしくお願い致します。