小説「楫取素彦物語」第203回
楫取は一瞬、驚きの表情を現し、次に深く頷いた。そして、三人の顔をしげしげと見詰めた。その時翁の老いた目が変化したのである。それは、若い力が甦ったように感じられた。
そして楫取は口を開いた。
「あれは明治十五年であった。群馬で廃娼を布達した。議会、県民と力を合わせて播いた種であった。あれがここまで育つとはのう」
モルフィは続けた。
「嵐の中で小さな芽は踏まれながらも育ちました。正義の光が小さな芽を守ったのです」
それに頷いて山室が言った。
「モルフィ殿を見て救世軍が運動に参加し共に闘いました。我等のウイリアムブース大将が来日し、明治天皇に拝謁し、その後、地方巡りでは第一に前橋を選びました。閣下が廃娼を始められた原点の地だからです。大将は孤児院を訪ね、このことさんにお会いされました。赤城山の麓で生まれ、不幸な少女時代を過ごしました」
楫取はことをじっと見詰めて言った。
「苦労されましたな。赤城や前橋市、利根川、様々な思い出が結びついております」
ことは一冊の古い書物を楫取の前に置いて言った。
「郭に出される時、母が人の心を忘れるなと言って行李の底にこの本を入れました」
「おお、修身説約ではないか。これが郭の中で行き続けたというのか。恐れ多くも、この原稿を私は明治天皇に御覧に入れたのだった。今日は皆さんに会えて、人生最良の日となりました。あの世で多くの同志が待っていますが、良い土産話が出来ました」
完